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郷土の先人・先覚263 若くして逝った自由民権運動家

二木栄松(嘉永6-明治21年)

二木栄松は自由民権運動で活躍し、学校草創期の酒田町の教育にも大いなる功績を残している。

明治5年に学制が公布されるが、酒田では7年から8年にかけて14の小学校が開校している。その中の一つの双松学校は、8年4月、本町三丁目(現在の酒田市民会館付近)に開校され、同年6月に操松学校と改名。酒田最初の女子校で、同年の生徒数は64人。この学校は二木栄松が自分の家屋敷を提供したものである。

操松学校には、宮野浦村(現・酒田市)に創設された宮浦学校勤務の著名な教育者・小川宮子が8年7月に招かれている。しかし、袖浦学校(宮浦学校を改名)との兼務であったことから、袖浦学校への通勤が困難であり、また両校兼務では教育に不行き届きになるとして、9年4月袖浦学校の兼務御免願いを小川宮子が県に出している。

一方、栄松は授業補として8年3月に船場町に創設された漸進学校の教師となった。同年9月には「授業方抜群且勉励罷在」で五等授業生に昇級している。生徒達にも非常に声望があったと伝えられている。

栄松は自由民権運動の指導者・森藤右衛門と親交があり、その運動に加わっている。明治13年酒田町内匠町の醍醐院で開催された森らの演説では、栄松が会主となった。600人の聴衆が集まり、林三郎の「民権主張国会開設の急務」などの演説が行われている。

明治16年森らが「自由ヲ拡充シ、権理ヲ保全シ、社会ノ改良ヲ図ル」を目的に、庄内自由党を結成するが、栄松は党の常議員であった。飽海全郡聯合町村会議員にもなり、短い期間ではあるが、数多くの鋭い発言をしている。

明治20年度の町村会議会では、土木費補助で「民間困弊」の今日、不急の土木を起こす必要がないと主張した。避病院の決算を追及した際、これ以上の質疑は無用という意見に対し、質問は議事の材料に供するためのもので、不明な点はあくまで質問すると反論した。

「飽海郡学事監査職務規程」により学事監査が郡内学校を巡回し、「学校管理ノ整否、学校風儀ノ良否、生徒学業ノ進否」などを監察する事が提案された際、栄松はいやしくも教育に従事する教員はこのようなことはすでに注目実行しているので、今にして監査を設ける必要がないと強く主張し、廃案に追い込んでいる。

しかしこの年、政治家としての大成を待たず、35歳の若さで亡くなった。

(筆者・須藤良弘 氏/1992年3月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

二木栄松(ふたぎ・えいまつ)

政治家。嘉永6年、大町村(現・酒田市)尾形又兵衛の二男として生まれ、酒田町本町三丁目に居住の豪商で三十六人衆、代々町年寄役を務めた加賀屋二木家に養子に入った。身長6尺もある堂々たる身体で、任侠心に厚く、気性は激しかったが、さっぱりしていたという。肺結核で明治21年7月7日に亡くなった。

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