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郷土の先人・先覚28

平田 米吉

平田米吉氏の写真

鶴岡を“織物のまち”に発展させたひとり。平田式織機を考案し、わが国絹織物業界の発展に貢献した。

平田式織機を発明したのは明治39年である。鶴岡は羽二重の生産が盛んなころで、「旭日昇天」の勢いだった。同時に織機が手織機から力織機への切り替えが急務になっていた。

米吉は庄内藩のご用達をつとめていた鶴岡の旧家の生まれ(明治2年)。事業家で大地主の平田安吉(安政4年-明治29年)の実弟である。

以前から絹織物に関係して、同32年6月に八坂町(現・大東町)に工場を構え、羽二重製織を開始した。しかし、絹織物の販売を福井、横浜の取次店に任せることは不利だったので、34年に横浜へ羽前羽二重店を開設。外人商館と直接取引を始め、その功績は大きかった。

鶴岡の羽前羽二重は県費の補助で生産がますます盛ん。力織機の必要が迫られているものの、高価で、力織機の導入に多額の資金が必要なことから、米吉は織機の研究に精を出した。

苦心惨たんの末、同39年に平田式力織機(特許10959号)を考案。ほとんど実費で販売、ただ不完全な面があったので、さらに研究を進め、翌年4月新たな平田式力織機(特許11980号)を発明した。この織機は非常に優秀なもので、多く使われるようになり、同年8月平田鉄工所を創設して量産体制に乗り出した。

そのころ、発明王の斎藤外市(長沼)が発明した斎外式織機が人気を呼んでいたが、平田式織機も広く普及した。

織機は斎外式と平田式で占められ、斎外式は鶴岡織物K.Kを中心に、平田式は羽前織物K.Kを中心に使用され福井、勝山など県外の生産地にも大量に普及した。

農商務省が明治42年にまとめた全国の羽二重製織機現有数調査によると、斎外式3626台、平田式1201台で、機種別では全国の1位と2位を占めた。

したがって明治末、大正初めの全盛期には、織機の製作が需要に追い付けず、輸送難の問題も重なって、主要生産地に委託工場を設け、現地で昼夜兼行で製作に当たった。

平田鉄工所の場合は、福井市内の鉄工所に鉄部品の製作を委託し、木質部は鶴岡から派遣した2人の大工につくらせ、現地で織機を組み立てていた。

米吉はさらに平田精錬所を創設して羽二重の品質向上に努力、明治39年に羽前絹錬K.Kを創立、社長になった。

なかなか器用な人で木工を特技にし、製作した火鉢や茶たんす、たばこ入れなどの工芸品がある、81歳で亡くなり、大東町の本鏡寺に葬られている。

(1988年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

平田 米吉 (ひらた・よねきち)

明治2年1月15日鶴岡に生まれた。八坂町(現・大東町)に羽二重重製織工場を創業。横浜に羽前羽二重店を進出させ、外人商館と直接取り引きを始めた。先進地の福井から技術者を呼んで鶴岡に絹練所を開所、明治39年5月羽前絹錬K.Kを設立して社長に。また、平田式織機を発明して、平田鉄工所で織機の量産体制に乗り出した。そのころ、斎外式織機が普及していたが、平田式織機も斎外式と同じように県外の絹織物生産地に相当普及した。昭和24年2月9日死去。

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