浜畑町(現・酒田市栄町周辺)地内で一段と高くなっている所は興屋といわれていた。この高台のさらに一番高い所の稲荷神社に隣接して、古い観音屋敷がある。正面に立派な宝篋印塔、その前面に第一番那智山と彫られた如意輪観音像があり、その周辺には西国三十三観音像がいろいろ向きを変えて立ち並んでいる。地蔵や泉水の跡も残る。酒田市の知られざる貴重な文化財と思われる。観音像の一つに十七番六波羅蜜寺の十一面観音像があり、その台座に市十郎の名が刻まれている。
造園業を営んでいる方の話によると、明治維新によってこの地の人々が生業を失った時、それを救うために当地の山田市十郎が京都で庭作りを学び、帰郷後ここで多くの弟子とし、造園の仕事を教えている。そのため興野は庭師たちの町となった。
酒田や酒田近在の有名な庭の多くは、山田市十郎とその弟子、孫弟子たちが作ったものである。
山田市十郎の代表作に、小山太吉家の別荘「寄暢亭」がある。廻船問屋で大地主でもあった小山家が、明治20年代に作らせたもので、林泉回遊式と坐観式を兼ねた大庭園である。
小山家別荘について詠んだ「寄暢亭の記」に「勝概ね絶佳、池は常に清泉涌き遊鱗撥刺、池中の小島に橋有りて渡るべく、庭隅に山を仮し礎有りて登るべし。大石寄巌の布置宜しきを得たり。緑樹青松山に倚り池に臨む。亭は即ち其の陰に在り」(伊藤珍太郎著『酒田の名工名匠』)。山田市十郎の壮大な造園技術しのばれる一文である。
明治14年、明治天皇が東北巡幸の際宿泊された酒田本町六丁目の渡辺作左衛門宅の屋上庭園など、多くの名庭園を作っている。
弟子の養成にも情熱を傾け、多くの優秀な庭師を輩出している。名園として有名な酒田の大地主・伊藤四郎右衛門家の別荘(清亀園)は弟子の加藤三四郎の造園で、中平田村勝保関の地主・佐藤吉右衛門家の名庭園は山田万吉の作庭である。
師の功をたたえるため加藤三四郎らを世話人とする弟子たち39名が、明治28年8月、浜畑町に記念碑を建立した。
庭師。挿遊と号す。天保元年3月3日、市十郎の長男として酒田浜畑町に生まれ、幼名三太郎、弘化3年父の死去により市十郎を襲名。明治21年、同町内の32番地とり46番地に移転。若いころから庭作りを好み、抜群の才能を発揮した。東京で造園を学んだという説もある。明治29年4月15日に亡くなった。