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郷土の先人・先覚286 庄内から初の女性理学博士

加藤セチ(明治26-平成元年)

庄内初の女性理学博士となった加藤セチは、押切新田字歌枕(かつらぎ・現三川町)の出身である。

セチの生家の加藤与一左衛門家は、この地方の旧家であり、豪農であった。明治18年、押切小学校新築の際は校地を寄付している。

しかし、親族の話によると、明治27年の庄内大地震で家が倒壊し、母と姉などを失っている。セチが満1歳になった直後である。更に祖父の代に三島県令の命で行った川代山の開墾で、全財産を失う非運に遭い、幼い時の豊かな生活から、一転して苦しい道を歩むこととなった。

明治33年、押切小学校に入学、同38年に高等科第三学年(現在の中学1年)を修了。鶴岡高等女学校に入学するが、3年で退学し、山形女子師範学校に入学。大正2年に卒業して狩川尋常高等小学校に勤務。この時、結婚した。

学問への道を捨て切れず、東京女子高等師範学校に入学、数学・物理・化学など7教科の中等教員免許状を得て大正7年に卒業。北海道に渡り、札幌の暁星高等女学校に勤めながら北海道帝国大学農学科に学び、同10年農学科第一部を修了、卒業論文は「リンゴ種子の発芽」である。北大農芸化学研究所の副手となった。

大正11年9月には特殊法人理化学研究所に初めての女性研究員として赴任した。住所も東京府北豊島郡上練馬村に移し、庭には実験用のサツマイモや草花が植えられた。2児を抱え、家事をこなしながら研究に没頭し、昭和6年6月「アセチレンの重合」、そのほか10編の参考論文を京都帝国大学に提出して、理学博士の学位が授与された。当時、日本では3人目の女性理学博士といわれている。

戦後はペニシリンの研究、「制癌物質の合成」など、多くの研究に取り組んでいる。後進の指導にも当たり、理研で起きた労働争議の時は、先頭に立って経営者と交渉している。「社会を良くしようとするのは当然」として、政治に対しても発言し、行動している。

昭和30年、理化学研究所の主任研究員で定年退職したが、嘱託として勤めた。また、上野学園大学教授、相模女子大学講師などを歴任し、同54年に上野学園大学の名誉教授となった。85歳の時である。

(筆者・須藤良弘 氏/1993年2月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

加藤セチ(かとう・せち)

理学博士。明治26年10月2日、加藤正喬の三女として生まれる。幼少時から物理学に興味を持っていたが、家庭の事などいろいろあって、研究が遅れたと、博士になって話している。大変な努力家で、自分の身を詰めても、他人に尽くしたという。質素を心掛け、思ったことははっきりと言い、へつらう事はなかった。長男は戦死し、長女等と東京都練馬区に住んだ。平成元年3月29日、95歳で死去した。

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