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郷土の先人・先覚289 八幡町町政に貢献 郷土史などにも精通

斎藤善右衛門(明治35-昭和48年)

八幡町の助役として政治手腕を発揮、町長を補佐して町政に貢献した斎藤善右衛門は、明治35(1902)年6月、鳥海山麓の山紫水明の地である飽海郡観音寺村(現・酒田市観音寺地区)で呱呱の声を上げている。家は代々続いた旧家で、曾祖父は俳句をたしなみ、不老観・右柳の俳号を持つ風流人であったという。

善右衛門は若いころから覇気のある人で、家が料理屋の関係から東京に出て修業、一流の腕を持つ料理人であった。

昭和26(1951)年、村民から推されて村会議員となり、同29年の町村合併によって退職している。だがその政治的手腕が認められ、同30年12月八幡町助役に就任して、初代町長・相蘇哲哉、続いて佐藤長助の二代に仕えて町政の要となって活躍、同34年11月に退任している。

その後、昭和42年9月、町会議員に立候補して見事当選を果たし、次回の同46年9月の改選でも当選の栄光を手にしているが、残念ながら任期半ばの昭和48(1973)年6月9日、病により死去。村議、助役、町議を歴任した惜しい人材が八幡町議会から姿を消してしまった。

善右衛門を知る人の話によると、物事は全て慎重に考え、これでよしと判断すれば迅速かつ的確に処理した、果断の人物であったという。

こうした半面、郷土史や民俗学にも精通した人で、多くの同好の士を訪ねてその教えを受けたという。また、町で発行した「広報・八幡のあゆみ」の中にも「八幡町雑話」を連載して好評を得ている。

そのほか、趣味の多い人で、昭和29年9月11日の両羽朝日新聞には「書道の大家としてこの界隈(かいわい)でよく知られ(中略)将棋は二段の腕前で、庄内将棋連盟の番付を見ると小結の地位にいるし、生花(安達流)の免許も取っている(後略)」と写真入りで報じられており、政治を離れた善右衛門の人生の一端がクローズアップされている。

(筆者・荘司芳雄 氏/1993年3月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

斎藤善右衛門(さいとう・ぜんえもん)

明治35年6月、飽海郡観音寺村(現・酒田市観音寺地区)で生まれる。政治的手腕に長け、村会議員を経て、町村合併後、八幡町の助役として初代、2代目町長に仕える。その後、町会議員に立候補し当選。2期に渡って務めるが、任期半ばの昭和48年6月9日、病により死去。郷土史や民俗学にも詳しく、書道、華道にも親しむ多才な人物だった。

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