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郷土の先人・先覚294 生涯を鳥海にかけ、雄大さを世に広める

畠中善彌(明治33-平成3)

郵便局長としての傍ら、山岳家として名を成した畠中善彌は、出羽富士・鳥海山麓の自然に恵まれた飽海郡吹浦村(現・遊佐町)で、明治33(1900)年2月に生まれ、幼年期から朝な夕なに鳥海山の雄大な景観の中で育まれ成長した。

略歴によると、明治44年、小学校四年生で道者として鳥海山へ初登山したと記されており、この時の印象が心に強く刻み込まれ、生涯を鳥海山にかける大きな芽生えになったと思われる。

やがて成人して仙台通信養成所に入所、大正10(1921)年には同所卒業後吹浦郵便局を経て東京中央電信局に勤務、その余暇に好きな絵の道に親しんで、洋画研究所に通い、熱心に絵筆をふるったという。

のち帰郷して吹浦郵便局に勤務し、昭和20(1945)年には吹浦郵便局長を拝命、同38年11月に退職している。

その間、昭和16年日本山岳会に入会、同18年には吹浦口の駒止(3合目)に畠中小屋を個人で建て、登山者やスキーヤーのために解放。また、地元に観光協会もなかったころから鳥海山の宣伝に努め、「スキーの鳥海」とタイトルをうたったパンフレットを自費印刷して紹介に努めている。

ほかに高山植物の知識も豊富で、自宅屋敷内にロックガーデンを造り、多くの植物を培養、研究を続けた。

こうした情熱が実を結び、鳥海山の名がアピールされ、鳥海の主・畠中善彌の人柄と名山の魅力に引かれ、登山者名簿に大勢の知名人の名が記載されている。

中でも高松宮殿下は、鳥海ブルーライン開通式への御臨席を入れると前後7回鳥海山においでになっており、殿下と畠中善彌の心の交流は、名山鳥海のように清浄な美しさが感じられてくる。

また著書に『影鳥海』があるが、その中の一節に「…殿下が拙庭(赤坂山草園)にお立ち寄り下され、庭の北隅の地に庄内柿をお手植なされた…」とあり、心温まる記事である。

ところで書名『影鳥海』は、鳥海山で最も良い景観の一つで、早暁御来仰の直後、日本海上遠く富士型の山容を投影する光景で、神秘的な幻想を思わせる。ほかに著書は『鳥海山の花』(みちのく豆本)がある。

叙勲は勲五等瑞宝章を授与されている。没年は平成3年。享年92歳の長寿で生涯を終えた。

(筆者・荘司芳雄 氏/1993年6月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

畠中善彌(はたなか・ぜんや)

明治33年飽海郡吹浦村に生まれ、仙台通信養成所卒業後、吹浦郵便局、東京中央電信局を経て、昭和20年吹浦郵便局長、同38年退職。日本山岳会会員で、鳥海山に畠中小屋を建て、鳥海山の観光宣伝に尽力した。高山植物にも精通し、植物培養など研究。著書に『鳥海山の花』『影鳥海』がある。勲五等瑞宝章受章。平成3年6月、92歳で亡くなった。

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