江戸時代、美濃派の宗匠として地方俳壇に名を成した武長百合坊は、享保19(1734)年、酒田の米屋町で武長家4代目浄閑の二男として生まれ、隣に分家して荒物商を営むも、本家の5代目死亡で本家に戻り、6代目を継ぎ、質屋・太物商を経営する。幼名・伝治、本名・五郎兵衛、のち五右衛門を襲名。以文は俳号である。
天明5(1785)年美濃派中興の祖といわれる獅子門四世神谷玄武坊が酒田に来た折、仏頂禅師(芭蕉仏門の師)の遺偈(いげ)の書幅を百合坊に預け、江戸に帰った。百合坊はその後も玄武坊の指導を受け、二見文台と三ちょうの図を授けられ、酒田の宗匠となった。
美濃派の獅子門は、芭蕉-支考-盧元(ろげん)坊-玄武坊-百合坊の系譜になっており、武長家の過去帳には、法名の下に「獅子門五世」と記してあるという。
庄内藩主・酒井忠徳は凡兆などの俳号を持つ風流人で、百合坊との間に次のような話が伝えられている。百合坊が60歳の時、藩主に呼ばれ、「天にもつかず、地にもつかず」の題で句を求められ「月の夜に水に影うつすふくべ棚」と詠んでいる。
また百合坊自画自賛の次の書幅がある。
楠木の画に 讃儉をまもりて高利を貪らず、貧ンをやすんして心に奢なきものハ冨ミ長久に及ぼすと、此樹木猶(また)然り、一年にのひる事わつか也といへと、としを経れハ其根石となるといへり ゑいやつと一寸のひて わか葉かな 百合房(坊を房にしている)
子孫を訓え戒めたものであろう。
「墨直し」(碑を洗い浄めて彫字のとおり筆を入れ、のち法会と句会興行する)については、伊藤山和書「すみなおし」の序に「…ここに百合坊尊師以心伝心を受け継ぎ給いて、漸尊師(漸伸坊)に遺誡し給う云云」と記されており、百合坊も「墨直し」を行ったことが知られる。
酒田の泉流寺境内に「六俳人」の碑がある。
梅花仏 各務支考
百合仏 武長百合坊
玄武仏 神谷玄武坊
漸伸仏 竹内芦錐
黄梅仏 伊藤花笠
梅亭仏 竹内魯秀
この中の百合仏碑の左側面に辞世の句がある。
我が墓も願ハゝ 梅の下やどり
と刻まれている。ほかに、もう一句辞世の句がある。
なんのあれ春は あけぼの鶴のこゑ
没年は文化2年、享年72歳だった。
俳人。俳号は以文。享保19年生まれ。酒田米屋町の太物屋で代々五右衛門と称し、百合坊は俳諧を好んで書画にも長じた。天明5(1785)年江戸の宗匠各務支考の高弟玄武坊が酒田に来た折、深川臨川寺の仏頂禅師が書いた遺喝の書幅を百合坊らに託し、江戸に帰った。
百合坊はたびたび玄武坊より俳諧の指導を受け、美濃派の酒田宗匠となった。文化2年、72歳で亡くなった。