明治24年、福岡県人・伊佐治八郎が飽海郡で乾田馬耕を指導し、稲作の発展に大きな貢献をしたが、それ以前に乾田化の有効性に注目し、実行に移している人々が庄内にいた。
明治26年、本楯村大字豊原(現・酒田市)の「旱田熱心者」と称する兵田鉄蔵、茂木辰治郎、伊藤浅吉の3人が乾田先進地である遊佐方面を視察巡回している(豊原研究会編『豊原村の人と土地の歴史』より)。
この記録によると、乾田農法の失敗例も目にしているが、成功例としては本楯の鈴木四方吉、千代田村の斎藤左治衛門などの田を挙げている。千代田村の土門源四郎から伊佐治八郎の模範田を見せられ、その優秀さに「唯々仰天スル」と感嘆している。
視察途中の3人は、刈り草干しをしている農民に、「旱田改良の重なる人」は誰かと聞くと、仙北新田村の高橋九左衛門であるという答えがあった。
高橋九左衛門家は代々この地の富農であったが、九左衛門の代に家運が衰退し、仙台地方に行き、農家の雇夫として働いた。その間、仙台地方で盛んであった乾田の技術を学んだ。乾田が作業の能率を上げ、収穫が大なることを知り、それを実行に移すため、文政8年故郷に帰った。
乾田農法について全然知らなかったこの地の人々は、乾田化に強く反対した。それに対して、深い泥状の悪田の多いこの村では、最も適する農法であり、天災地変がなければ、違作はなく、収穫は水田の倍にもなると、九左衛門は説いた。
3年後に、乾田農法の有効性が証明された。九左衛門は度々仙台に行っては、乾田農法の技術を深め、さらに乾田耕鋤に用いる三本爪のくわを購入してきたことから、乾田農法を学ぶものも出てきた。大井村(現・遊佐町)の土門与惣兵衛や大服部村(現・遊佐町)の石垣富治郎などに継承され、この地に乾田が広まっていった。
直世村(現・遊佐町)の菅原弥右衛門も明治2年、乾田法を行っている。遊佐方面で乾田法が進み、明治24年からの乾田馬耕が、あまり抵抗なく取り入れられたのも、九左衛門の首唱に負うところが大きかった。
豊原の3人は、乾田法を実行して数十年の九左衛門の乾田地に立って「肥料ノ不足ニ存シテカ株小ナルモ其出来堅固ナルハ天晴レ見事ノ稲毛ト身請ケタリ」と評している。
農業。天明3年仙北新田村で生まれる。乾田実施では、村民、親戚からも非難されたが屈することがなかった。晩年には家運も回復している。文久2年80歳で死去した。