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郷土の先人・先覚304 耕地整理事業に尽力

小松八十助(明治14-昭和19)

明治14年1月、小松八十助は飽海郡平田郷土崎村(現・酒田市)で父・猪之七、母・鉄代の子として誕生。家は通称勘助と称し、近村でも屈指の豪農で知られた。

『山形県史』によれば、勘助は慶長年間に土崎村が開発された時の草分百姓で、代々肝煎を務めた。当時の耕地はほとんど下田と下々田で、年貢の納入もおぼつかないほどであったが、その後の開田で戸数も34戸と増加、勘助は年貢の収納をはじめとする村役人の特権を利用して、所持地を村内最高の2町7反余に拡張、次第にその富を蓄積していった。

こうした血統を持つ八十助は、優れた指導者として多くの業績をあげている。その中で特筆すべきは耕地整理事業である。明治43年飽海郡耕地整理事業が始まり、完成まで20年の間、幹部の本間光弥、本間光勇を助け、会計として事業を推進し、実質的な功労者は八十助ともいわれている。こうした功に報いて整理事業から功労金5万円を贈られたが、八十助はこれを飢饉にして有終会(財団法人)をつくり、槇卯七を常駐させ事業を完成させている。

有終会は昭和63年に名前のごとく有終の美を飾り解散した。現在、有終会跡には顕彰碑があり、その功をしのぶことができる。

また、八十助は大正10年から約15年間、中平田村産業組合長として組合員の福利厚生にも尽力している。

ほかに村会議員として村政にも参画、村長をしていた従兄弟、小松保を影に日なたに助けたといわれる。

当時、村役場と駐在所は中野新田にあったが、熊野田に新築、昭和8年に移転して業務を開始した。この新築につき八十助は村役場に7500円、駐在所並びに学校グラウンド一部に1500円の寄付をしている。

趣味は乗馬好きの光勇同様で、南部の馬市に出掛けて気に入った馬を買い求めたとか。また、旅行好きで正月にはよく伊勢参りをしたというが「忙中閑あり」がぴったりである。

公民館前に昭和25年、当時の村山県知事書の「小松八十助翁碑」と手蔵田の荘司勝彦氏撰文の顕彰碑の2基があり、その一節に「…人格高潔を誇らず、人にこびず世におもねらず堂々と生きた、気骨の明治人であった…」と称賛している。昭和19年如月11日、享年63歳で尊い人生を終えている。

(筆者・荘司芳雄 氏/1994年2月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

小松八十助(こまつ・やそすけ)

明治14年1月、飽海郡平田郷土崎村の豪農宅に生まれる。優れた指導者として多くの業績を挙げているが、中でも耕地整理事業には多大な貢献があった。飽海郡耕地整理事業が始まった明治43年から、完成まで20年の間、会計として尽力。功労金5万円を基金にし、有終会をつくり、事業を推進した。また、中平田村産業組合長として15年間組合員の福利厚生にも尽力した。昭和19年2月11日、63歳で亡くなった。

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