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郷土の先人・先覚309 刀工 師の恩に報い鍛刀

斎藤清人(文政10-明治34)

刀匠として名を残した清人は文政10(1827)年10月、湯温海の滝の屋で呱呱の声を上げる。幼名・小市郎で、幼いころ親戚の斎藤小四郎(温海温泉朝日屋)の養子になった。斎藤家は先祖から刀鍛冶で代々小四郎と称し、清人は12代目に当たると言われ、家伝によれば京都三条で禁裏鍛冶を務めたという。

酒井家との関係では、9代藩主忠徳の知遇を得て鍛刀に励み、羽州荘内住源金信と銘を切ることを命じられ、さらに子や孫にも金重・金義の銘を与えている。

養父・小四郎について鍛刀の技を習った清人は、刀工修業を望み、旅立つことを望んだが、まず基礎を築くことが大切であると許さなかった。だが3年後の嘉永5(1852)年には父の許可を得て江戸に出て、江戸藩邸詰の家老・加藤宅馬、松平舎人らの勧めで、当時江戸三匠といわれた山浦清磨の門に入り、造刀技術の練磨に日夜努力した。もともと温厚で誠実な人柄に、師の清磨はとくに目をかけた。

昔、試し斬りで刀の切れ味を確かめたというが、清人の作刀で試し斬りが行われることになった時、清磨は清人の心情を察し、試し斬りされる死体を一晩中抱寝して自分の体温で温め、うまく斬れるように祈ったという逸話が残されている。

だが、清磨の晩年は酒に明け暮れ造刀を怠り、多くの刀債を残したまま嘉永7年急逝した。そして、多くの門人が離散した中で、清人はただ一人留まって、清磨の残した三十余口の刀債を完済して師の恩義に報いた。

やがて神田小川町に自立、庄内藩より五人扶持を給され藩主忠発の佩刀を作る。慶応3年には京都に上り、朝廷に献刀して豊前守を賜り故郷に錦を飾っている。

その後は時代の変革と共に刀鍛冶を廃業したが、明治30年、孫の海軍兵学校入学を祝い軍刀と短剣を作り、贈った。これが最後の鍛刀で、同34(1901)年75歳で亡くなった。

刀銘には「藤原清人作」「豊前守藤原清人作」など多く用いた。中で、脇差の添名に「名人に似たる所二つあり酒呑みと銭無し」がある。これが湯温海の熊野神社境内にある花崗岩の立派な顕彰碑に刻まれている。碑文の最後には「これは偉大な師清磨を敬慕しわが遠く及ばざるを歎じたもので、清人の人間性の真髄をここにみる」と記し、清人をたたえている。

(筆者・荘司芳雄 氏/1994年6月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

斎藤清人(さいとう・きよんど)

刀工。仙台藩士・長野清右衛門の八男として湯温海の滝の屋で誕生。幼いころ母の兄で庄内藩御用鍛冶を務める斎藤小四郎の養子となる。父から鍛刀の技を習い、嘉永5(1852)年に江戸に出て刀匠・山浦清磨の門に入って修業。同7年に師が急逝。安政3(1856)年に神田小川町で開業した。その後、慶応3(1867)年に京都で金道の子孫三品近江町に入門。朝廷に献刀し、紫宸殿で綸旨を賜り豊前守に任ぜられた。同年、養父の希望で郷里に帰り作刀、刀銘の多くに藤原の姓を冠した。明治34(1903)年75歳で死去した。

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