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郷土の先人・先覚311 私財を投じて吹浦周辺植林

阿部清右衛門(?-天保15)

吹浦村(現・遊佐町)の阿部清右衛門は、吹浦港の築港と周辺の植林に多大な功績を残している。

古くから吹浦の港は、飛島の船が多く入り、飛島と庄内を結ぶ拠点の一つであったし、また風波の激しい日本海を通る海船の避難港の役割を果たしていた。ところが、文化文政のころになると、風砂の害が著しくなり、月光川の川口に位置する吹浦港は砂で埋まり、船の出入りは困難を極めた。

それを憂いた清右衛門は川口の普請を決意した。清右衛門が書き残している文政7(1824)年の「吹浦村川口御普請萬扣帳」によると、文政5年飛島の船が吹浦に来たとき、飛島勝浦村庄兵衛に、川口の船通路が悪くなり、その普請を計画していることを話し、費用の少々を御上より拝借したいので、飛島からも協力を願いたいと頼んだが、庄兵衛は御上よりの拝借に反対している。

翌6年にも庄兵衛と飛島法木村長人孫右衛門に頼むが、吹浦の漁師全員が拝借金の返済に当たるのであれば承知するが、飛島だけであるならば承知できない、と断られている。

清右衛門は独力で工事を行うことを決意し、工事が完成した時には入港船一隻につき銀十匁収めてもらい、失敗した時は一銭も徴収しないことにし、文政7年工事に取り掛かっている。

工事開始後7年目の天保2(1831)年に工事は完成したが、清右衛門の要した費用は187貫446文に達した。役所から借用した22両余も、天保4年には返済しており、清右衛門の私財を投じた工事であった。

この地方の植林では、佐藤藤蔵や曽根原六蔵などが有名であるが、清右衛門もその功労者の一人である。

清右衛門は吹浦の河口が飛砂で埋まるのを防ぐために、文政年間、大庄屋斎藤丑治郎にねむの苗木500本の下附を願い出、下附されたねむを河口の南側に一人で植え付けを始めた。

砂丘が固定してくると、次に松を植えたが、その苗木の取得に苦労した。親族などの援助を受け、野生の松苗を採集して、十余年もの間植林に努め、成功した。この松林は清右衛門爺山と呼ばれている。

大正8年吹浦に4万5000円余を投じた漁船避難港が竣工するが、これは清右衛門の築港計画と同じであり、改めて清右衛門の先見の明が称賛されている。

(筆者・須藤良弘 氏/1994年6月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

阿部清右衛門(あべ・せいえもん)

漁業・廻漕業。吹浦宿町村生まれ。生年不詳。子孫によると清右衛門は築港や植林に没頭、家のことは顧みなかったという。清右衛門の子も清右衛門を襲名、この地で初めて建網を行ったことから、安政6年に鰯網漁の者と紛争が起きている。(遊佐町資料篇十号)大正10年飽海郡学事会は公益事業に尽くしたことで西浜松林内に功徳碑を建立、昭和29年にも新たに碑を建立している。天保15年2月15日死去した。

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