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郷土の先人・先覚315 酒田の教育の先駆者

遠藤宗義(安政3-昭和15)

大正11年10月24日、酒田町本町にある飽海郡会議事堂で、飽海郡学事会主催による「学制頒布五十年記念式典」が盛大に行われた。式典参加者400人を前にして、当時67歳の遠藤宗義は学制頒布前後の飽海地方の教育の状況について講演をしている。

遠藤宗義こそ、近代教育の草創期を語らせるには最もふさわしい人物の一人であった。

鵜渡川原村(現・酒田市)出身の宗義は幼少のころ鵜渡川原村にある山内成善の家塾に学び、明治2年6月には酒田民政局長官西岡周碩によって酒田天正寺に開校された学而館に入学し、主に藩学を学んでいる。翌3年1月には教育奨励を目的に定められていたことであるが、100日以上出席したことで金百疋の賞与を受けている。養父の遠藤英健は学而館の「生徒倡」であった。

学制頒布前に設置された学而館は明治3年9月には廃校となった。同5年の学制頒布あとも酒田には学校設立はなく、同7年になってようやく多くの学校が開校した。新しく設立される小学校の仮教師の養成が天正寺で行われるが、仮教師候補者14人のうちの一人に宗義も選ばれている。

仮教師伝習受講後の明治7年3月15日、宗義は酒田県より小学校仮教師、給料1カ月35円、天正学校勤務の辞令を受け、4月9日の開校に向けてその準備に入っている。天正学校が開校されると郡内はもちろん他郡からも参観者が連日続き、宗義らはその対応に追われた。

自己の向上をさらに願う宗義は、8年1月に天正学校の職を辞し、新潟師範学校受験を決意、雪中の葡萄峠を越えている。当地方で同年、4人受験したが、宗義だけが合格した。

明治9年10月に新潟師範学校を首席で卒業、文部省督学局より山梨県出向を命じられ、小学校や師範学校、山梨県学務課などに勤務したあと、各県の師範学校長や郡長などを務めた。

大正6年、故郷の鵜渡川原村に帰り、村会議員や学務委員などとなって、村民の福利の増進と教育の向上に努めた。村を二分した酒田町との合併問題では、合併が村にとって有利と考え、合併に尽力している。老齢ながら酒田市学務委員として教育界に貢献し、後輩の指導にも力を入れている。また、本間家の嘱託となり、「庄内戊辰戦争誌」などの編纂事業も行っている。

(筆者・須藤良弘 氏/1994年12月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

遠藤宗義(えんどう・むねよし)

教育者。安政3年鵜渡川原村・梶原宗利の二男として生まれ、同村・遠藤英健の養子となった。13歳のときに戊辰戦争に出陣している。愛媛県尋常師範学校長、滋賀県尋常師範学校長、行政官に転じて、滋賀県各地の郡長や門司市水道事務長などを歴任している。酒田市光丘文庫に蔵書334冊を寄贈。昭和15年1月20日死去。

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