正徳寺中興二十五世佐藤輝雲・母きよの長男として大正13年3月1日、呱呱(ここ)の声を上げる。
昭和16年8月、同輝雲に就いて得度、その後宗門の僧侶として修行を積み、また学窓に学び、同じ53年、晋山式(しんざんしき・住職就任式)を行っている。
大学では文学部に籍を置き、特に近代文学や詩作に励み、僧侶としては珍しく近代的なセンスの持ち主で、詩人としても、地方では名の通った人であった。
酒田市立中央図書館主催の「近代文学講座」の講師、その他詩の会などの選者を務め、自作の作品も多い。
雪の愁い ながあめに ぬれ やわぎほぐれた 庭土の 疎らな林の 小竹のはに 芝生を かくし 夕べ 雪は そよぎ積る ものうわぬ 肌えの愁い 人よ かげの人よ あなたは わたしにふれ おそいあさ なぎのあさ この雪をみる(略)
これは道也の詩集『雪の路』の中の一篇である。そして著者のあとがきに「(前略)雪国に生れ雪国に育ったせいか、雪はふしぎに私の詩情をそそるものがある。しばらくあたためていた念いが一篇の詩となった場合もかなりあり(以下略)」と記され、雪の情緒を詩人らしい感覚で見事に表現している。
また、持地院の「酒田大仏讃仰御和讃」を作詩、
悲願の船をこぎいだし
春秋歳をかさねきて
迎えし五丈の釈迦如来
出羽の沃野に立ち給う
(2節目以下略)
このように詩才をいかんなく発揮、文学活動に尽くした。
職歴として駒澤大学高等学校、県立酒田西高等学校、同北高等学校の教諭として勤務、生来の温厚な人柄と真面目さが多くの人に慕われたという。
正徳寺の住職としては昭和57年、立派な三門を建立し、寺院としての風格をととのえているし、座禅堂の新築や位牌堂の新築など、寺院の護寺(大切に守り保つこと)にも、精力を傾けた。
平成4年1月12日に示寂。
珠林山正徳寺住職。昭和56年酒田仏教和合会副会長、平成元年には同会会長、その他飽海地区保護司、曹洞宗第三宗務所保護司連合会支部副部長など活躍した。