戦後の酒田で川柳好きの人望が集い、古川柳を研究する「だろう会」がわずかな人数で発足したのが、昭和26年のことである。それがやがて現代川柳の実作に切り替わり、「酒田川柳会」として再出発したのが翌27年のことである。井上竹里はその直後に入会したと聞いている。
竹里は川柳号で本名は留蔵である。以前は俳句をたしなみ、蛇笏(だこつ)賞受賞や俳人協会会長などで重きをなした大野林火の抒情的作風に共鳴、緑村(りょくそん)の俳号で俳誌『浜』に投句を続けたという。
五・七・五のリズムは俳句で要を得ており、俳句の花鳥諷詠から人間を主題とした川柳に意味を求めたことも、ユーモアに富んだ彼にしては当然のようである。
やがて竹里の才能はわずかの間に先輩柳人たちと肩を並べる位置に達している。
・さかずきが出ると発言多くなり
・トラの眼がすわり周囲は席を立ち
・買物に決断がつく酒の酔い
こうした作をはじめ酒の句が多かったように、酒好きの人であったが、決して乱れず笑顔とユーモアで会場を和やかにした人で、これも彼の人柄の豊かさである。
職業は酒田東大町郵便局の局長であった。
・窓口をギクリとさせるサングラス
この句などは局長としてみた川柳で、こうした場面に直面しても川柳感を働かせる鋭さをもっている。
毎月の例会にはいつも出席して世話役を務めていた。
代表作は「醤油さし回ってこない大広間」
これは今でも彼の話になると話題になる句である。
川柳の三要素は風刺・滑稽・軽味と言われ、竹里の作品にはこれを基調にした古川柳の流れを感じる伝統川柳の味がある。
西平田村大町で明治45(1912)年に二男として誕生している。
長じて昭和4年仙台逓信講習所普通科卒業後、吹浦郵便局に配属。以後、酒田郵便局を経て西荒瀬郵便局主事、同42年に新設の酒田東町郵便局の初代局長に就任。同53年に定年退職。川柳を楽しんでいたが、病気となり平成3年10月、80歳で亡くなった。