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郷土の先人・先覚338 本間家の膨大な資料管理

真島久治郎(明治26-昭和56)

生涯の大半を本間家に仕えたという真島久治郎は、真っ直ぐな性格で、古武士のような風格であった。

激動の明治初期も過ぎ、世情も安定して新しい息吹が見え始めた明治中期に生を受けた久治郎は、成長すると共に、自分の将来を夢みて勉学に励んだという。

当時酒田にも実業教育の声が興り、明治40年に酒田町立商業補習学校(現・酒田商業高校→酒田光陵高校)が開校されたのを機に入学、同42年に第一回生として卒業している。その後、どのような経路を経て本間家の仕事についたのかは知る由もないが、優れた能力で同家の膨大な資料の解明と整理に努力したという。

本間家に現存の諸資料は、質量ともに誰もがケタはずれと評するほど多岐多様にわたり、多大である。そうした資料を土蔵の中に整然と分類していた関係から出し入れが厳重で、資料の返却など一枚一枚丁寧に調べて受け取る人で、縮み上がる思いをしたが、小言を言わないで親切に取り扱いを指導してくれた思い出が残っている。

古文書同好会の機関誌『方寸』に「本間家のある断面」と題した久治郎の文があり、歴代当主の事績を記している。その中で、8代・光弥のことに触れ、「氏の人となり、学問及び諸芸に通じ、英智に驕らず、憐愍の情、奉公の念厚く、謹言温厚な人徳(以下略)」と評し、私の見る所では光弥の代が最も堅実繁栄であったように思う、と称えている。

荘内育英会も大正10年、光弥の代に設立した。以来彼も育英会の仕事に就き、多くの人材を輩出させ社会に貢献している。戦後のことになるが、学生運動の激しかったころ、育英会に関係ある学生たちに軽挙妄動を慎むよう手紙を出して諭したと言われており、厳格な半面、慈父のような人だったという。

ほかに長い間本間家の仕事に従事した関係で、神仏崇拝の念が強い人で、本間本邸内にある同家の守り神「七社宮」には毎朝欠かすことなくご飯をあげたという逸話も聞いている。

背筋のぴんと張った謹厳な姿で、一見近寄りがたい風貌であったが、トレードマークのように腰に下げたじんぎり(たばこ入れ)からキセルを出し、たばこを吸いながら語る姿はまさに好々爺であった。

古文書同好会の初めころは、講師として本間家のうんちくのある話を聞かせてくれた。博学で同家の生き字引のような人でもあった。

(筆者・荘司芳雄 氏/1996年7月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

真島久治郎(ましま・きゅうじろう)

明治26(1893)年1月酒田で父・久蔵の子として誕生、両親の幻覚と愛情の中で成長した。

やがて本間家に職を得て、膨大な同家の資料管理と、庄内育英会の育成に全力を尽くした。性格は物事にこだわらない半面、緻密で几帳面な人であった。

終戦を契機として揺れる本間家の中にあって、時代の流れを見つめ、退任するまで自分に与えられた職責を全うしたことは、今時には得がたい存在であった。昭和56(1981)年12月、89歳で死去した。

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