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郷土の先人・先覚34

龍州 宗渕

龍州宗渕氏の写真

酒田市日吉町一丁目、持地院三十七世住職龍州宗渕は、万延元(1860)年9月21日に、狩川村字荒鍋の大滝伝左エ門の5人兄弟の三男として生まれ、幼時は大滝三蔵と呼ばれていた。

明治7年の夏、三蔵14歳のとき、狩川冷岩寺住職泥牛祖田のすすめにより弟子となる。その後、18歳のとき持地院三十六世透関恵玄の招きを受け弟子入りする。

曹洞宗大学林(現・駒沢大学)を卒業後、本山布教師となり仏教伝道のために全国を巡られた。23歳の明治16年に前から念願していた中国の錫崙聖蹟を巡拝し、帰国後は東京において鳥尾得庵、山岡鉄舟等と図り、仏教護国団や亜細亜教会、破邪鉄槌党を組織して、熱心に仏教思想普及に献身し、また浅草に孤児院、施薬院を設立するなど、仏教精神の実践化を目指し活動した熱血漢であった。

明治23年には、東京芝三田小山町二番地に出版所を設け、「正法眼蔵聞解」「仏教講義録」等の刊行も行っている。

透関恵玄が病床に臥したため帰郷し、明治26年7月に持地院三十七世に就任する。

明治27年10月22日の酒田大地震のとき本堂や庫裡がつぶれたが、翌年には再建した。しかし、震災で母親が建物の下敷きとなり圧死。同様に亡くなった酒田町民や日清戦争による戦病死者のめい福のために、大仏建立を強く発願した。たまたま戊辰の役に使われた大砲が土中から掘り出され、それに信者から寄進された古鏡、古銭で大仏の頭部を明治39年に鋳造し、さらに胴体を作るために日本各地を托鉢をしながら募金して歩いた。

明治32年、39歳のときに大仏調査も兼ねて朝鮮、中国に渡っている間に、本堂が再び火災に遭ったため直ちに帰国し、再建した。

本堂再建や日露戦争のために大仏建立も延期されていたが、明治44年に日露戦争の戦病死者の霊も一緒に弔うことになり、檀徒総代・佐藤善兵衛等の協力を得て、寝食を忘れて建立のために献身し、大正13年6月1日に13メートル余の、当時としては立像日本一の金銅釈迦牟尼如来の開眼供養を、大本山永平寺貫主勅特賜性海慈船大禅師が大導師となって盛大に執行された。

宗渕は大仏の後背地に森の山地蔵堂を安置したり、境内を庭園として整備し、また大梵鐘を鋳造し鐘楼も建てられた。

精魂を傾けて国内外まで苦労を重ねながら募金して建立した大仏と梵鐘は、太平洋戦争中に金属回収にあい供出させられたことは誠に残念である。

宗渕の曹洞宗会議員や地方宗教界における大きな足跡は、紙数の関係で割愛せざるを得ないが、昭和8年1月26日、持地院在住42年、73歳をもって、檀信徒はじめ多くの方より惜しまれながら永眠された。

本寺である岩手県水沢の永徳寺方丈は、3月19日の檀信徒葬の席上において宗渕の功績を賞讃され、中興の称号を贈られた。

(筆者・池田宗機 氏/1988年6月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

龍州 宗渕 (りゅうじゅう・しゅうえん)

幼少の頃から腕白者で正義感が強かった。冷岩寺弟子のとき法力によって大蛇を倒したのは有名で、その模様は持地院本堂の欄間に刻まれ、蛇骨は寺宝となっている。昭和4年9月発行の「港湾」に「奇僧大滝宗渕師」のタイトルで、明治27年の大震災後、酒田劇場を借り切って説明会を開き、酒田の復興発展には築港の完成や鉄道敷設と、女学校、中学校を建設して教育を充実する必要性を力説し、狂人坊主扱いされたとの記事が載っている。明治40年に自費で孤児院を建てたり、裁判所誘致のために奔走し、裁判所用地に境内を提供するなど教育福祉事業にも真剣に取り組んだ。

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