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郷土の先人・先覚342 産業運動へ身を捧げる

小林徳一(明治32-平成元)

政府は明治33年9月、産業組合法を公布した。組合員の産業・経済の発展を目的としたものである。産業組合運動に全力を尽くした一人が大和村(現・庄内町)の小林徳一である。

昭和11年5月、酒田市の琢成尋常高等小学校体操場で山形県産業組合大会が開かれ、1000人以上の関係者が集まった。大会終了後、優良産業組合の視察が行われた。それに選ばれた一つが大和村保証責任信用購買販売利用組合(専務理事・富樫義雄)である。

当時、「県下有数の産業組合として最も輝かしい歴史を有する」組合であり、「堅く行き届く親切」と「堅実第一」をモットーとして、「理想的経営に終始」「完全に村の経済を掌握」していると、大和村の産業組合は世間から高く評価されていた。

県下産業組合界における模範的な組合にまで発展したかげに、小林徳一がいる。徳一は大正13年に産業組合運動に入っている。

農業だけでは生活が不安定な農家に生まれた徳一は、若くして最上川改修工事の労働に従事し、もっこ担ぎで盛り上がった肩のこぶを家族に見せたこともあった。短期間ながらも鉄道員にもなった。これらの経験が、徳一を農村の経済的向上の道へと歩ませる。

さらに、生涯にわたって組合運動に身を捧げるほど影響を与えた一人に、高知市出身の岡本利吉(明治18‐昭和38)がいる。岡本は逓信省、三菱倉庫に勤めているうちに社会主義に関心を抱き、大正7年以降実戦運動に入った。企業立憲協会を組織し、機関紙『新組織』を発行。消費組合である協働社を設立した。労働者の生活向上を目指し労働会館も開設している。

後に、岡本には思想の変化があるが、富士山麓に農村青年共働学校を設立、農村青年の共働、自治を目指した。これに強く共鳴した徳一は働きながらこの学校に通い、昭和4年に卒業した。

昭和7年山形県購買販売組合連合会が組織されるとその書記となった。鶴岡支所長として大いに活躍、3人の職員が数年で20人になるなど事業が拡大した。

昭和13年大和信用購買組合理事、15年大和村会議員などの職に就くが、終始、文化面と経済面からの農村更生運動を進めた。農民の地位の向上に取り組み、農村内の相互扶助の大切さを説いた。徳一に相談にくる人は多く、家族が寝る場所もなくなるほどであったという。

(筆者・須藤良弘 氏/1997年1月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

小林徳一(こばやし・とくいち)

農業。明治32年大和村沢新田の枝郷・連枝の小林家の長男として生まれる。山形県農業会常務理事、大和村農業協同組合長、北斗会理事、大和村村長、庄内販売農業協同組合連合会会長、庄内経済連の初代会長など歴任。昭和10年大和村が経済更生指定村となった際も共同作業所作りなどに努めている。子孫によると、私利私欲がなく、何事もすぐ実行に移す実践家であった。夜は書斎で常に反省し、書き物をしていたという。平成元年死去。

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