庄内名産「庄内焼麩」が全国的に名が知られるようになるのは大正から昭和にかけてである。大正14年10月、東宮殿下が酒田に行啓された時、酒田の大淵三五郎の庄内麩が御買上品の一つになった。
正徳年間(1711‐1716)旅の六部が松山藩にやってきたが、病に倒れた。それを松山藩士が助けたことで、六部が焼麩の製造を指導したのが庄内麩のはじまりと伝えられている。
それは乾うどん製造の際に出る麩から麩素を取り、すりこ木に巻いて焼くもので、丸い筒型の車麩であった。松山藩内では文政年間から麩の製造が盛んになった。治左衛門・重助・田村屋仁兵衛などの製造業者も現れ、改良された板麩も製造されるようになった。
治左衛門の子孫の三五郎は、麩の本格的な製造を志して明治25年、酒田に移住し麩の新販路開拓にも乗り出している。
焼麩の製造は小麦粉を練り合わせて水洗いし、タンパク質とでんぷんに分離し、タンパク質分を取り出してこね、それを練棒に巻き付け、七輪の炭火で一本ずつ焼いた。それから乾燥、蒸し、板状にする‐などの工程を経るものである。
高級焼麩の大量販売を考えていた三五郎は大正6年、製造工程の一部の機械化に取り組んだ。試行錯誤の研究は10年にも及んだが昭和2年、ついに完成している。
それは練棒に巻き付けた材料を七輪ではなく、長さ5尺の金属のらせんに乗せて焼くものであった。燃料は炭火を用いたが、足踏み機でらせんを回すことによって、自動的に焼けて出てくるものである。機械焼きと称され、大量生産が可能になった。子の金之助はさらに改良して、電動力で回転させるようにした。
昭和5年、麩の本場関西市場に大淵製麩所は販売を図った。最初は値段の面で苦戦を強いられたが、品質の良さで進出に成功した。短冊形平面の庄内麩は関西の丁字麩と共に、焼麩界の最高峰に位置づけられた。
昭和9年、植物性タンパク質40%、100グラム当たり370カロリーという三五郎の麩は、当時の軍部も軍需品として注目した。
庄内麩の販路は東京、北海道方面にも拡大、国外にも目が向けられた。酒田の工産織物製造の生産額で、大正12年16位の焼麩は昭和11年に7位、3万4750円に達した。現在は酒田市松山地区などで、わずかに伝統が守られている。
焼麩業。明治2年松嶺に生まれる。植物に趣味があり、万年青を育てていた。昭和13年9月死去。