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郷土の先人・先覚354 治水造林で村救う

阿部永作(安政元-昭和2)

大正13年8月、北俣村(現・酒田市平田地区)の阿部永作は山形県治水山林会から表彰された。

山間の僻村である北俣村の自治を強固にするためには治水造林の方法しかないと考え、造林思想の普及に努め、自らも造林を実行し、村の基本財産の造成に成功したことが表彰の理由である。

村立小学校が老朽化し、改築の必要に迫られたが、貧しい村であったことから、有志の寄付金により、明治20年ようやく改築することができた。その時、永作は将来の学校の維持管理には基本財産をつくる必要があると痛感し、造林に取り組むことになった。

永作は愛沢長根の草刈り場に造林することを計画した。そこで各集落の総代人に相談したが、各自の所有している山林さえも十分に手入れできないのに、新しい造林は生育の見込みがないとして反対された。

永作はそれに屈せず、手を尽くして造林の必要性を人々に説いた。ついに村会でも決議し、22年4月から植林に着手した。村民にはまだ反対者も多く、植え付けのために集められた村民の中には、何十本もの苗木をそのまま土中に埋めて帰ってしまう者もいたという。

永作の苦労はその後も続いたが、12町4反あまりの原野に杉苗6万2000本余が植え付けされ、一大美林となり、37年には学校基本財産に編入となった。

同年、字大師石の国有原野8町余の払い下げを請願し、許可された。それを村の基本財産とし、杉苗10万本を植えた。さらに国有林野の特売法が施行されると、永作はこれを好機と考え、村民を勧誘して寄付金を募った。270町余の払い下げに成功し、村の基本財産とした。ここに植え付けた杉苗は20万2000本に達した。

明治30年から32年にかけ相沢川の度々の洪水によって堤防は決壊し、田は土砂に埋まった。北俣村ではその復旧工事に2万円を要し、県の補助はあったが、村民に重い負担となった。さらに村民は灌漑用水の不足にも苦しんでいた。

永作は北俣村100年の大計をたてるには、水源林の育成にあると考えた。明治維新後、薪炭材料に奥山の雑木を乱伐し、水源林の重要さを説いても耳を傾ける者は少なかった。これを説得し、15年間雑木の伐採を厳禁し、水源林の育成に努めた。2700町歩の水源林は守られ、そのため北俣村の洪水は少なくなり、田も水で潤うようになった。

(筆者・須藤良弘 氏/1998年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

阿部永作(あべ・えいさく)

安政元年12月、北俣村本宮生まれ。明治12年より上下北俣村会議員、山元村等二十七か村聯合会議員、32年から北俣村長、中断するが大正12年まで約20年間村長を務める。造林以外に、明治20年、酒田町本間家より桑苗1万8000本を購入。全村に配布、村内に共同製糸場を設置して、養蚕業を盛んにした。副業としての産馬にも力を注ぎ、飽海郡産馬組合を組織、村内に交尾分場も設立。また、学齢児童の就学率が郡内最下位であったので、その向上にも力を尽くし、多くの賞を受ける。昭和2年1月2日死去。

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