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郷土の先人・先覚49

伊藤鳳山

伊藤鳳山、通称は大三郎。10歳で母に死別し、11歳で父に死別し、13歳で兄に死別、その後大工町の医師・須階玄益のもとに引き取られた。玄益の家に十三経があった。鳳山は独力でこれを読んだ。

文政5(1822)年 鳳山17歳、江戸に出て評判の学者を片っ端から訪問し、師と頼むべき人を求めたが、酒田から上府したままのよれよれの垢じみた着物、疲れきった顔つきを見ると、どこでも玄関払いである。こうして幾日か過ぎ用意の金子もほとんど尽き、うらぶれ果てて両国橋を渡っていたら、酒田桶屋町出身の佐藤圭松に出会った。圭松は鳳山の幼な友達である。秀才であって折衷学の朝川善庵塾の塾頭を勤めていた。鳳山は圭松に勧められて朝川門に入った。なお圭松は惜しいことに24歳で病没、著書2、3あり、没後著書は酒田の人が持ち帰ったというが、今は散逸した。

鳳山の第1回帰郷は22歳のことで、評判は大そう悪かったので、江戸に戻ると発奮して勉強した。それで師の善庵は感服して養子にした。

参州(愛知県)の田原藩家老・渡辺崋山が、鳳山の剛毅なるを喜び、田原藩賓師に推した。

第2回帰郷は三宅侯賓師朝川鳳山を名乗って輿に乗り、堂々の行列である。酒田の人たちは皆驚いた。

ところで鳳山31歳。朝川家から離籍し、もとの伊藤姓にもどった。鳳山は大酒家で葵の紋付を着て、溝に落ちたまま眠るという失態を演じたからである。

万延元(1860)年 鳳山55歳、四谷仲殿町に開塾、その時内弟子6人、通い門人4、50人、医学の門人6、70人、江戸山の手の医術の大家はおおむね鳳山の弟子であった。

鳳山は華山の影響を受け、おのずから外国の事情に通じ、開国論者であった。嘉永6(1653)年 米国ペリーの来航があるや、鳳山は直ちに、「鎖港攘夷の策は取るべきでなく、開港進取の策こそ守るべきだ」と論じている。

安政6(1859)年、庄内藩が蝦夷地警備を命ぜられた時、鳳山は庄内藩がその対策を誤らぬようにと「富国献策」をしたためて藩主・酒井忠発に進上した。これは「近時の戦争は砲戦である。ひとたび開戦となれば、その費用はいくばくなるか計り知れない。その用意に平時富国の道を図らねばならぬ」と論じたのである。

儒者といえば古道に執着する頑固者のような印象があるが、鳳山は儒者としては珍しい、進歩的開港論者であった。

(筆者・小山松勝一郎 氏/1988年6月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

伊藤 鳳山 (いとう・ほうざん)

文化3(1803)年酒田本町三ノ丁(酒田市役所付近)に生まれた。少年時代、独学十三経を読む。折衷学朝川善庵門、参州田原藩藩儒に迎えられ、家老・渡辺崋山、藩医・鈴木春山と合わせて田原の三大山と俗謡に歌われた。著書59部。その中に『孫子詳解』があり、孫子の注解書中古今東西第一の書と称されている。その間、京都・江戸にて開塾。また帰郷3回、酒田でも開塾している。維新の際、田原藩主・三宅康保が佐幕派に加盟しようとするのを説得し、朝敵の汚名を免れしめた。明治3年田原において病没、享年65歳。田原城の北、蔵王山に葬られる。

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