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郷土の先人・先覚50

佐藤弥太右エ門

佐藤弥太右エ門氏の写真

佐藤弥太右エ門は、阿部亀治、工藤吉郎兵衛と共に、庄内地方の三大民間育苗家の1人に数えられる。弥太右エ門は、明治26年1月16日に山形県西田川郡東郷村猪子(現・三川町)に生まれ、幼名を牛之助といった。荘内中学校(現・鶴岡南高校)の3年を修了したが、家事都合で退学し後に家業に専心した。

弥太右エ門は、庄内の風土に適した水稲品種の創生を志し、明治40年に水稲品種「愛国」の自然雑種と思われるものを分離固定し「イ号」を育成した。この品種は、最盛期の昭和2年には約1万9000ヘクタールに達した。弥太右エ門は、同じ東郷村の佐藤順治が西田川郡農会の意を受けて組織した育種組織に属していたこともあったが、この組織が活動をやめた後も、独自で活動を続けた。その後人工交配による品種育成を開始し「玉の井」「信友早生」「昭和二号」など多数の品種を育成した。「玉の井」は、最盛期の昭和10年に約1万ヘクタールに栽培された。

佐藤弥太右エ門家は、耕地約50へクタールを所有する在村地主で、自作地の約3ヘクタールはすべて系統育成に使用したといわれる。これは優に国や県の官営育種組織で使用している面積に匹敵するものである。

弥太右エ門は昭和4年より「水稲新品種育成調査成績」と題した30ページほどの立派な活版印刷の印刷物を作り、育成中の系統の特性調査を詳しく記載し配布した。現在、昭和10年2月に作成した第6号まで残っている。この成績書をみると、多数系統について葉色、草丈、葉幅、茎数、出穂期、芒の有無と色、粒着の疎密、穂長、病中被害、総重量、藁重量、籾重量、籾1升重などの多数項目にわたって、例えば昭和9年の如きは300系統もの多数について、前記の調査項目がすべて書き込まれている。このような莫大な数字をどのようにして調査したのか、想像するのも困難な位である。力作『山形県稲作史』を書いた鎌形勲氏もしたがってその中で、これら民間育種の規模について「育種家中には驚嘆すべき規模と構想をもって実施した例が少なくない」と書き、「百万個体の観察という仕事は、我国官立農事試験場の規模の総計を凌駕するものであった。試験場の品種改良担当者が、農夫と助手によって作成せられた個体別特性調査表を一日一枚ずつ検討しても、一万個体の総計に27年を要するのである」と書いた。

同氏はしかし、これらの民間育種家の多くは在村の地主だったとし、その動機は結局は小作人の米収を増やし、それによって地主の収益を増加安定せしめることにあったと述べているが、弥太右エ門のこの莫大な調査をみていると、これは決して経済的に引き合う仕事ではなかったことは明白である。弥太右エ門が、別の機会に育種について述べた一文が残っているが、それをみても、そこから伝わってくるのは、庄内の稲作を向上させたいと願う情熱だけである。庄内の民間育種家は多く、庄内の風土に適した稲を求めてその情熱を傾けたことを立証することは、そう困難ではないのである。

(筆者・菅 洋 氏/1988年6月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

佐藤 弥太右エ門 (さとう・やたえもん)

幼名・牛之助。三川町猪子の富農に生まれた。荘内中学を3年で中退し家業に従事。乾田馬耕の普及に伴って水稲在来種の弱点に着目して品種改良に努力した。明治40年イモチに耐病性の強い「イ号」を創出、その後人工交配に成功し、数十の優良品種を創出し好評。西田川郡農会長、県農会長、帝国農会議員として尽力、農事功労者表彰(大正14年)、藍綬褒章(昭和8年)を受章。

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