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郷土の先人・先覚60

斎藤信治

斎藤信治氏の写真

哲学者・斎藤信治は明治40年、酒田・下台町の料亭「藤助」の長男として生まれた。幼年時代、彼の遊び場は、もっぱら山王森だったと思われる。森が哲学者を育てるというが、彼の場合は山王森と光丘文庫が、その哲学魂を育んだといえよう。酒田商高長をされた和根崎正作先生が、まだ酒中生のころ、夏休みで帰っている信治が、和服姿で悠々と扇子を使いながら分厚い本を読んでいるのを見て、大いに憧れ、学問的情熱をそそられたと話してくれたことがある。

小学校は第二尋常小学校に入った。担任は1年から6年までを通して園部正先生であった。不幸なことに彼はこの園部先生とウマがあわなかったのか、元来、異端児だったのか、お互いに嫌いあった。同級生に佐藤十弥、柴田とくやがいるが、十弥は小学生時代の信治を“反逆者”だったと書いている。

彼は後年、哲学者を、青草を食べないで、あえて枯草を食べているような馬に、たとえていたことがあったが、子供のころから風変わりだったに違いない。やがて、家業を継ぐべく酒田商業学校に入った。彼にソロバンや簿記は不似合いな気もするが、卒業すると一時、銀行員になったともきくから、案外まじめな勉強家として過ごしたのかもしれない。

昭和9年、東北大学法文学部を卒業し、同15年から17年まで、大川周明のすすめでエジプトのカイロ大学に入学した。キリスト教、イスラム教をはじめとする宗教が入り組んでいて、古くから宗教戦争の絶えない地域である。

彼はここでじっくりと、宗教の本質や風土の人に与える影響とかを考え、「沙漠的人間」の素地を形成したと思われる。

いつか、彼は酒田での会合の際、安祥寺住職だった故華園晃尊(こうそん)師に「自らの宗教を絶対とするキリスト教やマホメット教では、世界の平和は得られない。世界の平和をもたらすのは他者をも受け入れる仏教だろう」と語ったそうである。

同26年、郷土の先輩哲学者・伊藤吉之助の尽力で、北海道大学教授となり、哲学を教えた。同32年文学博士となり、同36年欧州諸国を歴訪した。同23年以降、中町にあった敬天堂書店主長谷川信夫氏主催の会のため、実存哲学とサルトル、プラトニックラブ、キリスト教的愛、ヘーゲルとマルクスなどの演題で講演している。

(筆者・田村寛三 氏/1988年7月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

斎藤 信治 (さいとう・しんじ)

哲学者。酒田商業学校を経て昭和9年東北帝国大学法文学部を卒業。15年から17年までカイロ大学へ留学した。同26年に北海道大学教授。神戸大、京都大、中央大、学習院大などで哲学を教えた。32年に文学博士となり、36年に学術研究のために欧州を歴訪。「ソクラテスとキエルケゴール」「回教に於ける個体」「実存主義者の時局観」「哲学入門」「不安の概念」などの著書がある。享年71歳。

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