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郷土の先人・先覚75・在野の博物学者、オオタキマイマイなど陸産貝類に名を残す

大滝 五百太(明治8-大正15年)

大滝五百太氏の写真

学問の分化が判然としなかった明治期には、自然に興味をいだく人は、現在の学問分類からすればきわめて多岐にわたる分野で足跡を残した。庄内でその頂点に立ったのは松森胤保である。しかし、庄内には松森のように博物学のほとんど全分野に足跡を残すとまではいかなかったが、特定の対象物に愛情をそそいだ人がいた。大滝五百太の対象物はイネとカタツムリといわれる陸産貝類であった。これは誠に奇妙な組み合わせである。五百太は、明治8年4月に西田川郡西郷村千安京田(現・鶴岡市)に生まれ、家業の農業に従事したが、稲作改良指導員として、乾田馬耕の技術指導のため県内外に派遣された。

大正前期に、西田川東郷村角田二口の佐藤順治が西田川郡農会の意を受けて、水稲の育種組織をつくり、自ら交配した雑種種子を郡内の農民育種家に配布し、その後代の選抜にあたらせた。この組織は大正13年ごろまで続いたが、このメンバーの中に大滝五百太もいた。佐藤順治の残した記録によると、大滝五百太には大正6年2組み合わせ、同7年3組み合わせ、同8年2組み合わせ、同9年1組み合わせ、同10年1組み合わせ、同11年1組み合わせの雑種種子が配布されている。五百太はこれらの雑種組み合わせの種子を自家の水田3畝(3アール)に栽培した。これらの雑種後代から、後世に名を残すような新品種は生まれなかったが、五百太は大正前期から中期にかけての庄内での進歩的育種家集団の重要な一員であった。

五百太は、育種家として活躍した大正前期より15年ほど前の明治30年ころの20代前半ごろになぜか、陸産貝類に異常な興味を示し、庄内地方で採取を続けた。その成果は、オオタキマイマイ、オオタキキビガイ、オオタキコギセル、オオタキタマキビなどの陸産貝類に名を残した。明治30年ごろ、当時の我が国おける陸産貝類研究の第一人者であった平瀬与一郎と連絡しており、上記の命名はこれら学界の人によってなされたものと思われる。オオタキマイマイは庄内西部の鶴岡市西郷、大山地区から山形県境に近い新潟県北部にかけて分布し、その後、新潟大学の江村重雄が詳しく研究した。

五百太は、若い時代、明治中期という我が国の自然科学の黎明期に、陸産貝類の研究という特異な分野で大きな貢献をした。その自然を見る目が、後年水稲育種に際しても大きな力を発揮したものと思われる。西田川農会が組織した育種組織は、リーダーの佐藤順治といい、そのメンバーの1人だった大滝五百太といい、さらにその後独自で水稲育種に大きな業績を残した佐藤弥太右エ門といい、当時の水準でみれば立派な科学者集団だったといえるものであろう。それにしても、五百太が明治中期という我が国の科学の黎明期になぜ、陸産貝類のようなものに興味をもったのか知りたいものだが、今となっては知る手立てがない。五百太は大正15年2月に52歳で没した。

(筆者・菅 洋 氏/1988年8月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

大滝 五百太 (おおたき・いおた)

明治8年4月8日、千安京田の農家に生まれた。陸産貝類の採集調査に興味を抱き、明治30年ごろ京都の貝類学者・平瀬与一郎の指導で農業をやるかたわら貝類の採集に打ち込んだ。県内で60余種、県外でも数多くの陸産貝類を採集、研究。「オオタキマイマイ」など姓をつけたものが4種類もある。また半面、篤農家でもある。大正15年2月1日死去、享年52歳。

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