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郷土の先人・先覚88 布施の実践家。生き仏と慕われる

颯田本真(弘化2-昭和3年)

颯田本真氏の写真

本真尼は弘化2(1845)年、愛知県幡豆郡吉田町の颯田清左エ門の長女して生まれ、12歳で浄土宗の寺で得度し尼僧となった。18歳の時、同地に慈教庵を創建し、明治16年には本堂をたて徳雲寺と改名した。若い頃“好相行”という、数日間、不眠不休で阿弥陀像に念仏をとなえながら礼拝し続け、生きた阿弥陀仏にまみえる修行をした。

年を経るに従って、徳が高くなり、いつしか「三河の尼さん」として知られるようになり、多くの弟子を持つようになった。本真尼は“善根”や“布施行”を何よりも尊び、弟子に教えるとともに自ら実践した。暇さえあれば弟子たちに寄進の反物で着物を仕立てさせ、災害があると聞けば、その着物や支援物資を積んで数人の弟子と一緒に訪れて施しをした。その行動範囲は南は九州から北は北海道に及んでいるからほとんど全国にわたっている。また、いつでも両ふところに銭や菓子を入れておき、貧しい人や子供に与えた。

酒田を初めて訪ねたのは、明治27年10月の庄内大震災のときで、石巻まで船を使い、それからは陸路で救援物資を山ほど荷車に積んできた。このときは寺町の梨屋漬物店に泊まった。ここのお婆さんが熱心な念仏信者だったことによる。林昌寺の脇寺瑞相寺には、地震で亡くなった人の霊を弔うために寄付を集めて建立された「震災横死霊」が建っている。

当時、本真尼は49歳であったが、この来酒が、酒田の人々に強烈な印象を与えたとみえ、たちまち熱心な信者ができた。この信者達の要請によりその後は毎年のように酒田を訪れている。宿は林昌寺や浄徳寺という浄土宗の寺が主だったが信者の家にも乞われるままに泊まった。本間家でも度々招待し、当主をはじめ家族や親類、奉公人達に法話を聞かせた。

信者宅では梨屋に多く泊まったと思われるが、拙宅にもよく泊まったということを母から聞いている。その頃の当主夫妻が念仏信者で、私の祖父・文四郎はよく遊女達に説法をしたという。本真尼は拙宅を「布団がなまぐさくない」といって好んで泊まったらしい。あるとき、別室に寝ていた弟子の若い尼さんが、夜中に仏像が焼ける夢をみて、目を覚まし、不審に思って本真尼の部屋を覗くと、懐炉(かいろ)から煙が出ていて、危うく火事になるところだった。

本真尼が生涯にわたって布施したのは全国23道府県、150余市町村、戸数6万余戸に及び、生き仏と慕われ、昭和3年8月、84歳で没した。浄徳寺に舎利塔がある。

(筆者・田村寛三 氏/1988年10月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

颯田 本真 (さった・ほんしん)

尼僧。12歳のとき得度して尼僧になり明治16年、出身地の愛知県で住職に。同24年から大正13年まで、北は北海道から南は鹿児島県までほぼ全国にわたって慈善活動し、その布施戸数は全国23道府県、6万戸に及んだといわれている。明治27年の酒田地震以来、酒田に度々来て功徳を施したので大勢の信者がいる。後に有志が分骨を受け、酒田の浄徳寺境内にまつった。

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