今田栄氏の名を知る人も少なくなったが、庄内の漁業を語るとき、その事蹟を忘れることはできない。戦前、善宝寺境内に佇立した翁の銅像が建っていたが、太平洋戦争中供出のため撤去された。
「身体魁梧(かいご)、美髯(びぜん)頬に垂れ、一見威容あり、而も温顔で衆に接し、仁恕濶達(じんじょかったつ)で、快談公義を重んじた人」で、漁民から「ひげのおとちゃ」と敬愛された。明治中期から大正11年の半世紀近く、山形県水産界の指導者として活躍、本県漁業近代化の魁として大きな足跡を残した。
鶴岡の実業界の代表的人物・平田安吉の義弟であることから、三瀬の漁業家・白幡弥兵衛、仲治親子の懇請により、漁民と町方資本両者の推挙、協力と、その人格識見により明治31年、西田川郡海面漁業組合長につき、以後終生20余年間その職にあった。
維新後の新秩序確立を目的として、漁業組合準則、明治漁業法公布と次々に、旧幕藩時代の封建制の濃厚な漁業の近代制度への改革が進められた時代であり、開明派士族の今田は最適人物として時宜を得た登場であった。
西田川郡水産組合(明治36年改称)の先頭にたって、旧来の漁場、漁業権の縄張り争いの混乱を解決、魚商問屋と漁民の利害紛議の調停に力を発揮した。従来の閉鎖的、排他的な漁業慣行、新勢力の台頭による混乱の統制、漁民意識を「組合員ノ共同ノ利益ヲ図ル」という面から刷新改善に尽力した。
明治37年大謀網導入、大正元年小波渡・由良の鱈場紛争調停、大正6年由良白山島架橋、大正初期の帆・櫓船から発動機動力化奨励等が具体的であり、この他漁港の改修、海難防止安全の標識灯常設、養殖(鮭ふ化、岩海苔)の振興にも努めた。
また若年より海、漁を好み、海岸漁村を歩いて研究に励み、西田川海面漁場図を、明治30年神戸の第2回水産博覧会に出品し注目された。白幡仲治の協力で西田川郡漁業一覧を編集発行。絵画をよくし、竹蘭と号し、肉筆の荘内漁具魚類図を著した。
筆の精緻さ、科学的な描写は素晴らしく、当時の漁具漁法を記録した資料として、学問的価値の高い貴重な文献である。大正11年4月の葬儀には、生前の各方面の多彩な活躍を慕って各界会葬者無数満堂立錐の地なく、市内の仏教各宗派を問わず大抵の僧侶が諷経せしという。
安政2年5月17日、庄内藩士・今田氏繁(加茂組大庄屋)の三男として生まれ、長兄氏昌に子無く家督を継ぐ。政代夫人は実業家平田安吉の妹。印刷所鶴鳴館支配人、荘内水産会社監査役、西田川郡海面漁業組合長に推挙され、没年まで20余年刊在職。漁業指導者として、庄内漁業の近代化の魁として大きな足跡を残す。絵画をよくし竹蘭と号。西田川海面漁場図、荘内漁具魚類図等を著す。長年町会議員として町政にも尽力。大正11年4月16日没。享年68歳。