文字サイズ変更



  • プリント用表示
  • 通常画面表示

郷土の先人・先覚96 寂の画家と称される 庄内の美術振興に努力

地主悌助(明治22-昭和50年)

極端に言えば、すべての生物は、生まれ育った環境を、体内に色濃くとどめるものと見える。人間もまた、埒外ではない。地主悌助先生の一生を考える時、私はこのことを強く感じる。

四国にはエゴツソーという民族が住むという。庄内人はじょっぱり民族だ。

地主先生も60歳ころになった時、私だって木石じゃないよ、と笑われたことがあるが、私たちの言う木石云々と、先生の木石は、やはりだいぶ違うのじゃなかったか。

また、私たちみんなが東京にいて、東京から白甕社を後押ししていた昭和17、18年ころのことだが、上京して来た地主先生を迎えて、上野のふぐ料理店に席を囲んだ。

先生のニックネームは「ふぐ」。在校生が先生に聞こえるようにふぐと小声で言ったのが、先生にききとがめられてエライ目にあった、などということはごく普通の話。

同期の大友俊三先生のあだ名を受けて先生自ら青田平と号して恬然としておられたのと彼これ案ずれば一目瞭然。

そういう気質を十分に飲み込んでのふぐ料理屋での我々の接待。さすが先生も不惑を過ぎて、教え子に教育されようとは、世も正に末と思われたかどうか。記念写真を撮す時、今はなき三井惣一君、接待に当たったその店の女中さんをそそのかして、先生の肩に手をそっとおかせてパチリ。そのれを後日先生のお手許へ進呈する。

旬日を経ずして、先生から三井君のところに顔を真っ赤にして泡をふいたような、エライ抗議の手紙が舞い込んだ。

60近い爺さんが、妻も子もある教え子に、あららげた激怒の手紙、いやはや我々その手紙をみせられて、「参った参った」と頭に手をやる始末。

何が木石じゃない、もないもんである。

じょっぱりの見本のような先生は、とにかく信念は強い人だった。いや遂に先生66歳にして再び郷関を出でて、東京を舞台にして一勝負挑んだのだから、もしもうまくゆかなかったら鵜を真似た鳥といわれたかも知れない。

たしか荘内中学校はドイツ文学の三井光弥と同期、一方は帝大、先生は中学中退、検定、検定とがんばって小学校の先生、中学の先生とおしあがっての、むっつり頑張り。ざっこ釣りも好きな方で、その点では荘内藩士の血は十分。

文学の神様、小林秀雄、谷川徹三大先生をうならせて、野の大芸術賞である新潮社創設の日本芸術大賞に輝く。

初志は貫くべし、教訓。襟を正して合掌。頓首。86歳の生涯を閉じる。

(筆者・今井繁三郎 氏/1988年11月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

地主 悌助 (じぬし・ていすけ)

画家。明治22年7月22日鶴岡市旧最上町生まれ。荘内中学を中退し、検定で小学校教員に。大正元年上京、坂本繁二郎画家に入門。その後図画教員の検定に合格して秋田県師範学校教諭、山口県女子師範学校教諭を経て大正14年帰郷。鶴岡中学校で美術を担当。長い間白甕社の会長も務め、荘内の美術振興に努力。昭和29年神奈川県ニ宮市に転居し絵画制作に専念、同46年新潮社日本芸術大会大賞を受賞。同50年11月26日86歳で死去。

トップページへ前のページへもどる
ページの先頭へ

Loading news. please wait...

株式会社 荘内日報社   本社:〒997-0035 山形県鶴岡市馬場町8-29  (私書箱専用〒997-8691) TEL 0235-22-1480
System construction by S-Field