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藤沢周平書籍作品あれこれ

藤沢周平の作品における風景

1 女たちのいる風景

◇わがままな女2

「働く女」「耐える女」が不幸な境遇や貧しい暮らしの中でも黙って働き、健気で可愛げがあるのと好対照をなしている。作者の視点がはっきりここにも表れているといってもよいだろう。下層階級に生きるものや、権力や時代の波に翻弄される弱くて貧しいものに対してあたたかく、冷酷で、力や金に頼り、わがまま勝手にふるまう者に対して憤りの目をもって人間の姿を描いていることと結び付くものであろう。

しかし、藤沢作品の奥行きの深さは、こういう人間の型を類型化して、勧善懲悪的に描いたりしないところにある。複雑な人間関係の中で、相対的な心理のもつれ合いの中で、善にも悪にも揺れ動く「心」の機微に触れていく。なぜ悪妻になってしまうのか、なぜ「口喧しいだけの女」になってしまうのか、そんな悲しい「心のもつれ」が伝わってくる。『獄医立花登手控え』に出てくる立花登の叔母は、例の「わがままな女」の1人であるが、読みすすむにつれて、この叔母のやさしい側面も描き出されていて、心理の葛藤の中で変貌してゆく人とのつながりが興味深い。こんなふうに描かれている。

叔母は杓子定規な女で、家の者が自分の目算をはずれて勝手に動くと、叔母は不安になり、機嫌がわるくなるらしかった。

あるいは、叔父がこの叔母の尻にしかれている様子を、

あまりにきびしく眼をくばられていると、いい気持はしない。叔父が酒のみになったのも、むべなるかなと登は思うのである。

といった具合に「口やかましくて、金銭にこまかく」「娘のしつけがなってない」仕方のない女なのであるが、一緒に暮らす年輪の中で、登は叔母にもよいところがあると気付く。

叔母もこまかいことに口やかましいくせに、意外にひとを信じやすい。悪いひとを疑うということが出来ない人間である。

と、次第に叔母を許すようになってゆく登の心情を描いている。確かに、わがままで仕方のない女は多く登場するが、こういう女たちであっても、芯の底まで悪い女としては描かれない。どこかに、許されているものが感じられる。藤沢周平氏のフェミニストとしての一面が推測されよう。

『喜多川歌麿女絵草紙』という作品の中に、浮世絵師「歌麿」が、こんなセリフを言う。

「わたしは、別に好みで描いているわけじゃない。商人の内儀さん、芸者、山猫、何でも描きます。丸顔でも瓜実顔でもじつはかまいません。ただ透けて見えるような女は、描く気にならんのですよ」

とか、

「なんかわたしには見えないものを隠しているような女がいい」

と言うのであるが、この言葉を作者が言いたかった言葉と受け取ると面白い。絵の世界と小説の世界の違いはあっても「女を描く」という主題は同じだからである。平べったい、底の割れる人間は描きたくない。裸にしても、まだつかめない何かを隠している人間こそ描きたい、という歌麿の画家の執念は、作家の執念でもあるだろう。こう考えて読み返すと、「わがままな女」も作者の深くて鋭い視点によって描き出された人間の哀しい姿の一つなのである。

「おわりに」へ続く 

(筆者・松田静子/鶴岡藤沢周平文学愛好会顧問)
海坂かわら版
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