このように山形で大変貴重な4年間を過ごして、昭和24年に22歳で湯田川村立湯田川中学校に赴任し、国語の教師となります。湯田川中学校は今は無くて、その中学校があったという跡に文学碑といいましょうか、ここで藤沢先生が教えたという記念碑を教え子たちが建てています。この頃にはお兄さんが戦争から帰っていまして、お父さんとお兄さんとで家の農業を守っていくんですけれども、この24年までは比較的順調で、貧しいながらも幸せな少年時代・青年時代で、親戚の人や親兄弟に守られて非常に幸せにすごしています。
ところが、昭和25年に、お父さんが脳溢血で急死するんです。その、お父さんが急死したということがそもそもの小菅家のつまずきの始まりで、お兄さんがその後何とか自分の家を守っていかなければならないというのでちょっとした事業に手を出し、失敗をし、一家離散せざるを得ない状況になってしまいます。借金取りに追われまして、一時期お兄さんが行方不明になって、藤沢さんがお兄さんを探すために雪の中を歩き回ったりしたこともあったといいます。お兄さんが事業に失敗し家が破産するという悲劇、そして自分自身が肺結核にかかってしまいます。肺結核にかかって鶴岡市内の病院へ入院するのですが、初めのうちはそんなにひどい状態ではなかったらしいです。いま言ったような心痛が重なったことやら、お兄さんの代わりに借金取りと折衝をするとか、あるいはお兄さんを探すために雪の中を歩き回るとか、そういった無理がたたって病気が進行していまい、鶴岡市内では治せないから東京に行ったらどうだ、と勧められてやむなく東京に行くんです。この時お兄さんに付き添われて上京しますが、侘しい出発でした。「よし、東京に行って一旗あげるぞ」というような状況ではなくて、病気がいつ治るかわからない、何のために故郷を捨てなければならないのかという思いで、まさか二度と帰ってこないとは思わなかったと思うんですが、辛い旅立ちだったことでしょう。そして長い長い闘病生活が続きます。
32歳で鶴岡市藤沢の三浦悦子さんと結婚しますが、だいたいこの頃までずっとその闘病生活が続くわけです。二度も手術を受けまして、結核の手術は成功するんですが、この時輸血した血液に肝炎のウイルスが入っていたようで、やがてそれが命取りとなって亡くなられることになるのです。
(山形県高等学校司書研修会講演より)