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荘内日報ニュース


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2008年(平成20年) 2月6日(水)付紙面より

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「一球の大切さ」 上

田沢芳夫氏(元南海投手、鶴岡市出身)を偲ぶ

 昭和30年代にプロ野球で活躍した田沢芳夫(元南海ホークス投手=鶴岡市出身)が1月25日、急性心不全でこの世を去った。現役時代の活躍を知る人も少なくなったが、田沢が生涯こだわり続けた「一球の大切さ」を紹介する。

 1936(昭和11)年8月28日、西田川郡加茂町(現鶴岡市加茂)で漁師の長男として生まれた。幼いころから櫓櫂(ろかい)を漕(こ)ぎ、カレイやワタリガニなどを捕って、家業を手伝いながら草野球に高じていた少年・田沢芳夫(右投げ・右打ち)が野球で頭角を現したのは小学校6年生ごろからだった。

 1年後輩の泉谷寿一(70)=鶴岡市加茂=は「小学生ながら中学生も打てない球を投げていた。野球センスはずば抜けていた」と語る。

 加茂中(統廃合により現鶴岡五中)から、県立鶴岡工業高校へ進学。「一球」へのこだわりは、この鶴工時代にさかのぼる。1年から打撃を買われ、野手としてレギュラー入り。球が速く、「いずれはエース」の期待が高まりそれに応えようと、全体練習が終わった後も、暗くなってボールが見えなくなるまで連日150球以上投げ込んだ。

 同級生で捕手を務めていた本間幸一(71)=同大山一丁目=は「当時はミットにスポンジを入れ、人さし指を出さずに捕球していたが、速くて重く指が痛くてしょうがなかった。試合では直球だけでバット(木製)を何本もへし折った。性格はおとなしかったが学業も優秀だった。(私は)長くアマチュア野球の審判を務めたが、鶴岡では田沢の豪速球が一番」と、今も太く腫れ上がった左手人さし指を見せながら話す。

 53(昭和28)年秋には新チームのキャプテンでエース、4番としてチームを引っ張り、直球とシュートだけ(カーブは投げられなかった)で、酒田工業高を逆転で下し県大会を制した。しかし、東北大会は諸般の事情(資金難?)から出場できなかった。

 54(昭和29)年夏は、県大会決勝で山形南高に勝ち、福島県で開催された東北大会(宮城、福島、山形の3県から甲子園出場は1校)に駒を進め、庄内勢初の甲子園出場を賭けて戦った。1回戦の郡山商業高(福島県代表)、準決勝の仙台商業高(宮城県代表)を完封で下し、ついに甲子園が手の届くところまできた。決勝は地元福島商業高だった。

 試合は3―1と鶴工がリード。8回に失策と安打で1点差まで詰め寄られ、なおも2死満塁。2ストライク3ボールのフルカウント。捕手のミットを目がけ満身の力で投げた「一球」。得意の直球はインコース真ん中へ。微妙なコースだったが判定は「ボール」。押し出しとなり同点に追いつかれた。動揺したのかその後打ち込まれ、試合は3―6で逆転負け、またしても甲子園の夢が絶たれた。

 一球の大切さについて田沢は、『鶴工野球部の歩み』に、「あの一球は、ボールだったのか? ストライクではなかったのか? あれがストライクとジャッジされていたら甲子園に行けていたかも知れない。そうなっていたら運勢も変わっていたかも知れない“あの一球”は、ボールのジャッジで良かったと思っている。甲子園に行っていたら、おそらく天狗(てんぐ)になっていただろうし」と記している。

 高校時代の3年間は朝晩毎日、足駄(あしだ)(当時の男子高校生は定番)を履き、加茂から旧道の加茂坂を通り、大山の旧庄内電鉄の北大山駅まで歩いて通った。

 昨年11月に死去した「神様、仏様」で知られる元西鉄ライオンズの大投手・稲尾和久が、幼いころから大分の別府湾で小舟に乗り、漁を手伝ったことが「連投できる体力と精神力を養った」という話は有名だが、田沢も晩年「幼いころからの生活(漁の手伝い、通学)は体力的にプラスだった」と語っている。

 『平田杯 80年のあゆみ』に「勝負は、下駄(げた)を履くまで分からん! とよく言う。鶴工は福島(大会開催地)に下駄を履いて行ったのに……残念でした」と鶴工時代の思い出に書いている。

 また、『鶴工野球部の歩み』には「毎年夏が近づくと、新聞に穴があく程見てしまう」と寄せ、母校の活躍を楽しみにしていた。果たせなかった甲子園出場は、後輩たちにより31年後の94(平成6)年夏に実現。2回戦の八頭高(島根県代表)との試合(4―5で敗れる)は、在学生・OBらとともにアルプススタンドから応援した。

(文中敬称略・上林達哉)

県大会を制し優勝カップを手にする田沢投手と優勝旗を掲げる富樫捕手(本間幸一氏提供)
県大会を制し優勝カップを手にする田沢投手と優勝旗を掲げる富樫捕手(本間幸一氏提供)


2008年(平成20年) 2月6日(水)付紙面より

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被災児支援に一役 鶴岡二中 今年もスマトラへ寄付

 鶴岡第二中学校(柿崎泰裕校長、生徒479人)で5日、大地震と津波の被害を受けたインドネシア・スマトラ島の被災児の生活や学業の支援金贈呈式が行われた。

 同校ではNPO法人「地球の子どもネットワーク」(山口吉彦理事長)の呼び掛けに応え、2005年3月から被災児の教育や生活を支援する里親事業への協力を開始した。家庭や地域の協力を受けながら学校全体で取り組んでいる空き缶回収運動で、引き換えたお金の中から被災児1人の1年間分の生活費、学費を現地に送り続けている。

 この日、同ネットワークの山口考子理事が同校を訪れ、朝礼の時間に設けられた贈呈式で生徒会議長の板垣諒君から支援金を受け取った。山口理事は大地震の被害や混乱の様子、その後に日本で始まった里親活動について説明するとともに、「悲しみを乗り越え、明るく生きる現地の子供たちに代わってお礼いたします。里親として頑張ってくれる皆さんの気持ちに感謝したい」と謝辞を述べた。

 支援金は同ネットワークを通じて現地に送られる。
          
          

スマトラ島の被災児のため、鶴二中の生徒たちが支援金を贈った
スマトラ島の被災児のため、鶴二中の生徒たちが支援金を贈った


2008年(平成20年) 2月6日(水)付紙面より

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古代米で「うどん」 粉練り込み商品化 酒田市南遊佐女性グループ

 酒田市南遊佐地区の3人の農業女性で作る加工グループ「鳥海モロヘイヤ麺工房」が、古代米とうるち米の粉を練り込んだうどんを商品化した。古代米の天然色素を生かしたそばに近い色合いで、つるつるとした食感の腰の強いうどんに仕上がった。地域の特産を生かしたモロヘイヤうどんと並ぶ主力商品にしたいとメンバーも張り切っている。

 鳥海モロヘイヤ麺工房は10年ほど前、既存の加工グループから独立する形で代表の小松勝子さん(64)、佐藤祐子さん(63)、石黒由美さん(49)が立ち上げた。地域を挙げて栽培しているエジプト原産の健康野菜・モロヘイヤの粉末を原料にしたうどんの製造・販売に取り組んできた。

 1日の農作業を終えた夜、メンバーが宮内地区にある加工所に集まってうどんを作る。店舗を持たず、注文を受けてから製造する形で販売している。モロヘイヤ以外ではニンジン、シイタケ、エジプト菜などを練り込んだうどんも手がけてきた。

 先月26、27の2日間、酒田市内のAコープで開催された「農家が育てた庄内農林水産加工品フェア」で、米を原料にした加工品の紹介がメーンテーマに据えられたことから、地元産の古代米とうるち米の粉を使ったうどんを開発した。2日間で100食分を用意し、試食販売したところ、両日とも午前中で売り切れるほど好評だった。

 小松代表は「黒に近い紫色で、最初はそばと思った人もいた。つるつるとした中に、もっちり感がある仕上がりになった。おいしいと言ってくれる人が多かった。腰の強さを楽しむならつけめんだが、温かくして食べてもおいしい」と手応えを話す。

 モロヘイヤうどんは、お盆の帰省シーズンに売り上げが伸び、法事の引き出物、贈答などにも引き合いがある。古代米とのセット販売も視野に入れており、今後は粉の配合割合など、さらに改良を加えることも検討している。

 1玉130グラムで100円(税込み)。2日前まで電話かファクスで注文を受け付ける。受け取りが原則だが、酒田市内には配達もしている。注文は小松代表=電、ファクス0234(28)2973=へ。

古代米を使ったうどん。そばに近い黒紫色が特徴
古代米を使ったうどん。そばに近い黒紫色が特徴



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