2024年(令和6年) 4月13日(土)付紙面より
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第2次世界大戦当時、連合軍の兵士が送り込まれた県内唯一の捕虜収容所が酒田市にあったことを知る人は少ない。この歴史的事実を後世に残そうと、庄内地方の有志らがこのほど、記録集『酒田捕虜収容所・空襲~過去の証言・未来への教訓~』を出版した。編集委員の一人、村田則子さん(76)=鶴岡市下川=は「今も争いが絶えない時代に酒田でこんな歴史があったのだということを知ってほしい」と話している。
村田さんらも所属する全国組織の市民団体「POW(戦争捕虜)研究会」によると、太平洋戦争当時、全国には約130カ所の収容所があり、東北地方には11カ所、山形県内には1944(昭和19)年10月から45年9月まで、酒田市本町三丁目に唯一の収容所が開設され、312人が収容された。主にイギリス人280人、オーストラリア人29人で、ほかにアメリカ人とオランダ人。
これらの捕虜たちは酒田に来る前は映画『戦場に架ける橋』のモデルにもなった泰緬鉄道建設に使役されており、熱帯地方のシンガポールから船で日本に送られ、初冬の酒田に着いた。酒田では石炭や木材の積み込み、家畜の解体などの労働に従事させられた。
村田さんらは、酒田空襲にも密接に関わる収容所の歴史を地域史として残す必要性を感じ、2020年から1年間、市民を対象とした勉強会を開催。記録集には、この時に集めた地元の人の証言や、戦争加害や捕虜に関する考察などを12章に分けて掲載した。
第2章では元捕虜でオーストラリア軍医だった故ローリー・リチャーズさんの著書『A Doctor,s War』を、遺族の許可を得て抜粋して掲載した。リチャーズさんは過酷な生活の中で、収容所で働いていた市内の松本勇三さんと、その友人の高橋忠吉さん(いずれも故人)が危険を冒して医薬品の確保や食料の調達をしてくれた「友人」と話し、「酒田で親切にしてくれた人のことは忘れない」と記している。リチャーズさんは1959(昭和34)年に来県した際、2人と再会。2011年に再来日した際は遺族と面会し、今も遺族同士の友情が続いている。村田さんは「ここでは捕虜への虐待などもなく、捕虜も酒田へ好意的な気持ちを持っていた。このことは誇っていい」と話す。
冊子はA4判で123ページ。1000円。先月下旬に500部を販売し、今月さらに300部を増刷した。酒田市の八文字屋みずほ店、三川町の戸田書店、鶴岡市の八文字屋鶴岡店と阿部久書店で販売。問い合わせは村田さん=電080(5225)9785=へ。