2024年(令和6年) 9月19日(木)付紙面より
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幕末に活躍した「三舟」と呼ばれる幕臣の一人・高橋泥舟(でいしゅう)と庄内との関わりなどについて考えるシンポジウム「幕末三舟の一人 高橋泥舟と庄内・清川」が16日、庄内町の響ホールで開かれた。泥舟を研究する東洋大学文学部の岩下哲典教授らが基調講演し、人物像などを紹介した。
泥舟(1835―1903)は、旗本・山岡家の次男として江戸で生まれ、母方・高橋家の養子となった。山岡家は槍(そう)術の名家で自身もやりの修行に励んだ。1859年講武所槍術師範役。その後、浪士組を結成し、浪士取締役、66年には幕府軍遊撃隊頭を務めた。鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が破れた後は、徳川慶喜に恭順を説き、寛永寺で護衛にあたった。維新後は東京に隠棲。幕末から明治初期に活躍した幕臣・勝海舟、山岡鉄舟とともに「幕末の三舟」と評されている。
シンポジウムは「庄内町史資料第七号・清河八郎関係日記一」の発刊記念事業として、町教育委員会と東洋大学講師派遣事業が共催した。この日は泥舟、鉄舟の両者と親交の深かった清河八郎の調査・研究のため庄内にも足を運んでいる歴史学博士の岩下教授と、泥舟が1889(明治22)年に山形を訪れた際に記し、今回の資料第七号にも掲載された「山形行(ゆき)日記」の翻訳者の一人で日本語研究家のイアン・アーシーさんが基調講演した。
このうち、岩下教授は「高橋泥舟とはどんな人物か」と題して講演。「幕末の最も有名な幕臣で、江戸無血開城の貢献度ナンバー2。一番は山岡鉄舟だが、山岡を慶喜に推薦したのが泥舟だった。“やりの泥舟”と呼ばれ、江戸でも評判の人。いろいろな人から勝負を挑まれたが全て打ち負かしたほどの名手だった」と紹介した。また、山形行日記を引用しながら「詳しい時期ははっきりしないが、おそらく山岡を通じて清河と共感したのだろうと思う。志の部分で関心や共感を持ち、自分の妹を清河に嫁がせようとしたことなど高く評価していたことが分かる。泥舟は明治になってからいろいろなところで揮毫(きごう)した“旅する揮毫家”。清河も早くに亡くなったが“旅する思想家”という共通点がある。山形行も清河の墓参りがメインだったのだろう。明治22年に忠愛小学校が鶴岡にできるが額に揮毫し、開校式にも出席している。泥舟は福祉の面にも深く関わっている」などと述べた。
その後、座談会が行われ前庄内町文化財保護審議会長の柳川泰善さんをコーディネーターに岩下教授、イアンさん、鶴岡市郷土資料館の今野章館長補佐が泥舟と庄内について意見を交わした。
2024年(令和6年) 9月19日(木)付紙面より
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46回目を迎えた鶴岡田川地区サッカースポーツ少年団荘内銀行頭取杯争奪5年生大会の決勝トーナメントが16日、庄内町八幡スポーツ公園サッカー場で行われた。決勝ではモンテディオ山形ジュニア庄内が鶴岡FCを4―1(前半3―0)で下して優勝。両チームを含む上位3チームは、今年11月に長井地区で開かれる第9回県信用金庫協会杯争奪U11県大会に出場する。
ジュニア層の技術向上に向け、鶴岡地区サッカー協会(佐藤利浩会長)が、荘内銀行(鶴岡市、松田正彦頭取)の協賛、明治安田生命保険山形支社(山形市、松本定重支社長)の特別協賛を受け開催。特に同行は子どもたちの健全育成を目的に第12回大会から頭取杯を贈るなど協力し続けている。
今大会には16チームがエントリー。14日に4チームずつ4ブロックに分かれて地区内のグラウンドで予選リーグを行い、各ブロック上位2チームが決勝トーナメントに進出した。試合はいずれも8人制で15分ハーフ。好天の下、選手たちは日頃の練習成果を思う存分に発揮し、細かなパスワークや素早いドリブルで相手をかわすなどゴール目指して走り続けた。
閉会行事で、優勝したモンテ庄内に頭取杯を手渡した同行の本間元毅常務執行役員本店営業部長は「チームが一つになって一生懸命にボールを追いかける姿に感動した。次のステージでも頑張って」、決勝トーナメントに進出した8チームに公式球を贈った松本支社長は「素晴らしい試合を見させてもらった。次の目的に向かって技術を磨いてほしい」と述べた。全試合終了後、同支社主催のサッカースクールも行われ、8チームの約120人がモンテアカデミーコーチらの指導を受けた。
順位は次の通り。
1モンテ庄内2鶴岡FC3サルバトーレ櫛引SC4FC余目5庄内FCアカデミー6三川SCjr7Quinto鶴岡FC8羽黒サッカースポーツ少年団