2006年(平成18年) 7月21日(金)付紙面より
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戦後を代表する女流詩人で今年2月に亡くなった茨木のり子さん(本姓・三浦)が眠る鶴岡市加茂の高台にある浄禅寺(西方信夫住職)に、詩集などを集めた「茨木のり子コーナー」が設けられた。西方住職は「庄内に縁があったということはあまり知られていない。そうした縁を伝えるとともに、故人をしのぶ場所の一つになれば」と話している。
茨木さんは1926年、大阪生まれ。幼年期を愛知県西尾市で過ごした。帝国女子医学・薬学・理学専門学校(現東邦大)在学中に学徒動員され、19歳のときに終戦を迎えた。その後、繰り上げ卒業し、戯曲や童話を書き始めた。
49年に鶴岡市出身の医師・三浦安信氏と結婚。結婚後、本格的に詩作に取り組み、同人誌「櫂(かい)」を創刊するなど発表を続けた。みずみずしい言葉で紡がれる作品は批判精神に富み、代表作に反戦の思いを込めた「わたしが一番きれいだったとき」、「倚(よ)りかからず」などがある。
31年前に亡くなったご主人が鶴岡出身だったほか、茨木さんの母親も三川町出身。こうした縁で近年も何度か鶴岡を訪れたことがあったという。
茨木さんは生前、「私の意志で葬儀・お別れ会は何もいたしません」という最後の“あいさつ状”を準備していた。このため親族で密葬を済ませ、4月2日に三浦家の菩提寺の浄禅寺で納骨法要が行われた。西方住職は「『やっと夫婦一緒になれる』と親族の方がおっしゃっていた」と話す。
茨木さんのコーナーの設置は、新盆を迎え、「多くの方に知ってほしい」と本堂の一角に設けた。詩集や写真のほか、西方住職が集めた茨木さんに関する新聞記事や雑誌のスクラップ、最後のあいさつ状も公開。7月の盆で訪れた檀家の中には、「ファンだったので驚いた」と、著名な女流詩人と菩提寺が同じことに感動する人もいたという。
西方住職は「あらためて詩集を読んでみると、心に突き刺さってくるものがある。同じような思いを抱いたファンの方々が故人をしのび、何かを感じるような場所になれば」と話していた。見学料は特に必要ない。問い合わせなどは同寺=電0235(33)3107=へ。
鶴岡との縁も深かった茨木のり子さんを追悼するコーナー。奥は西方住職