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荘内日報ニュース


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2010年(平成22年) 10月10日(日)付紙面より

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働く喜び 苦労学ぶ 吹浦小4年生 「道の駅」で職場体験

 遊佐町の吹浦小学校(村岡真人校長)の4年生16人が9日、学区内の「道の駅鳥海・ふらっと」を訪れ、施設内の売店や食堂などで職場体験した。

 年内に開催を予定する「2分の1成人式」に向け、将来の夢を見据えるきっかけの一つになればと、4学年PTA(池田康彦委員長)が企画した。ふらっとは地元の施設であるとともに、さまざまなテナントがあって多様な体験ができるため研修先に選定。小学生の職場体験は「珍しいのでは」(村岡校長)という。

 この日は子供たちの司会で開会式。ふらっとを経営する遊佐町総合交流促進施設の土門豊総務部長が「皆さんはこれまではお客さん。今日はお客さんから仕事ぶりを見られる立場。元気よく頑張ってほしい」、村岡校長が「働くことの喜びと大変さ、人とかかわることの素晴らしさと面白さを、体を使って学んでほしい」とあいさつした。

 全員で「頑張るぞー」「おーっ」と掛け声を上げた後、エプロンとおそろいの青色のバンダナ姿で2―4人ずつに分かれ職場体験。農産物直売所「ひまわりの会」の清掃や、お土産品コーナーの商品整理などを手伝った。味の駅(ラーメン店)ではネギ洗いなどを体験。ファストフードコーナーで、玉こんにゃくのくし刺しに挑戦した赤塚美由希さん(9)は「意外と簡単。楽しい」、小野寺琉来君(9)は「真ん中に刺すのがちょっと難しい」と話していた。

吹浦小 4 年生たちがラーメンに入れるネギをきれいに洗った
吹浦小 4 年生たちがラーメンに入れるネギをきれいに洗った


2010年(平成22年) 10月10日(日)付紙面より

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平成・奥の細道ウオーク第24回大会 600人 鶴岡の自然歩く

 俳聖・松尾芭蕉の旅の足跡をたどる「平成・奥の細道ウオーク」(日本ウオーキング協会など主催)の第24回大会出発式が9日、鶴岡市のJR鶴岡駅前マリカ広場で行われた。全国から集まったウオーカー約600人が、最終目的地の新潟県村上市に向けて元気にスタートを切った。

 芭蕉がたどった奥の細道に岩手県北、青森県、秋田県北を加えた総延長約2500キロの「平成・奥の細道」を、健康づくりや俳句などを楽しみながら11年かけて歩く壮大なイベント。2003年4月に東京・深川を出発し、年間3回のペースで大会を開いている。13年9月のゴールを目指し、同年10月の伊勢神宮式年遷宮にお参りする。

 今年4月の第22回大会で庄内地方に到達。芭蕉の足跡をたどる形で庄内町清川をスタートし、出羽三山神社などを訪れた。先月18―20日は秋田県にかほ市から遊佐町を通り、酒田市を歩いた。

 今大会は青森県から九州地方まで全国各地から約600人が参加。本年度最後の大会で、11日までの3日間で鶴岡駅前から三瀬、鼠ケ関を経由し、新潟県のJR村上駅まで計61キロを歩く(途中バス移動あり)。

 大会初日は午前8時半にマリカ広場で出発式が行われ、大会実行委員長の大内惣之亟さんが「庄内平野の自然と景観を心行くまで楽しんでほしい」、榎本政規鶴岡市長が「秋の素晴らしい一日を楽しみ、交流を広げてください」とあいさつした。

 準備体操の後、「松尾芭蕉」「小林一茶」「小野小町」など俳人や歌人、詩人の名前を冠したグループごとに「エイ、エイ、オー」と気勢を上げて出発。小雨がぱらつくあいにくの天候となったが、山王日枝神社や内川の芭蕉乗船の地、鶴岡公園などを巡る約20キロのコースを元気いっぱいに歩き出した。この日のゴールはJR三瀬駅。

 第1回大会から参加している東京都内に住む60代の女性2人は「歩きながら全国各地の自然や風景を見るのが楽しみ。友達もたくさんできる」と話していた。

笑顔でJR鶴岡駅前を出発する参加者たち
笑顔でJR鶴岡駅前を出発する参加者たち


2010年(平成22年) 10月10日(日)付紙面より

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森の時間33 ―山形大学農学部からみなさんへ―

いい爺さんは山へシバカリに ―里山再生シリーズpart1― 小山 浩正

 誰にでもありそうな子供のころの勘違いのお話。初めてカラーテレビが家に来て、早速オリンピック中継にかじりついていた私は、「外国」というやたら強くてでかい国があると思い込んでいました。童謡「赤い靴」に出てくる女の子は「いい爺さん」に連れてかれ、「こぶとり爺さん」はメタボぎみの老人と思っていました。そして、私と同世代の多くが誤解していたのが、昔話に出てくるお爺さんの「山でシバカリ」。そう、芝刈りと勘違いしていたのです。もちろん、柴(しば)刈りであって、低木を刈り込むことですが、無理もないことです。高度成長期の生まれは柴を使う生活などほとんど知らないのですから。

 柴刈りは里の生活の原風景と言えるのでしょう。かつて人々は燃料や生活資材を得るため、里山で木を伐り、草や落ち葉を採りました。こうした行為は自然破壊のようにも思えます。生態学でも生物量を損なう現象を「攪乱(かくらん)」と呼びます。イメージとしてはあまり良くありません。ところが最近は、むしろ攪乱こそ生物の多様性を維持する鍵であることが分かってきたのです。ここにも誤解がありました。

 もし、攪乱がなければ森では遷移が進んで中まで陽が差さなくなります。そうなると、暗がりで耐えられる植物しか生きてゆけないので植生は単純化します。ここで、攪乱が時々起こると、そこには陽が入り、明るくないと生きていけない植物も生育できます。そんな植物にはカタクリやスミレのように蜜を作るものもいて、それを求めて昆虫が来ます。その昆虫を食べる鳥が秋には木の実を運んでくれる…。こうして里山は多彩な生き物でにぎわっていました。柴刈りなどでヒトが代行していた攪乱も、そうした多様性を保つ役割を担っていたので、お爺さんは知らず知らずのうちに里山生態系の一員に組み込まれていたのです。

 ところが高度成長期を境に化石燃料が普及し、里山はもはや暖かさの源ではなくなりました。同じころ農業では化学肥料が席巻し、里山の落ち葉も無用になったのです。こうして里山と社会は離別しました。攪乱が起きなくなった里山は、遷移が進み、暗くなっています。奧山みたいだと言うヒトもいます。奧山と同じだから、クマも抵抗なく降りて来ると言われます。拡大中のナラ枯れも、以前は枯れた端から使っていたのでこれほどまん延しなかったようです。このように、里山の崩壊が起きたのは攪乱としての利用と人の気配が消えたからであり、森と生活が離れてしまったことによります。

 ですから、解決の方向性は単純です。再び攪乱とヒトを里山に戻せば良いのです。しかし、それこそ言うは易し。現代人は、もはや昔の生活に完全に戻ることはできないので新しい方法を捻出(ねんしゃつ)せねばなりません。「森の時間」でも、時には真面目にそれを考えようと思います。なにせ、高度成長期生まれもバブルの青年期を経てすっかり中年になっていますから、加齢臭にまみれる前に知恵を絞りたいものです。あぁ、そういえば加齢臭も、カレーのにおいだと思っていました(どこが真面目なんだか)。

(山形大学農学部教授 専門はブナ林をはじめとする生態学)

柴のある里山の風景/鶴岡市田川=自然写真家・斎藤政広(2010年9月22日撮影)
柴のある里山の風景/鶴岡市田川=自然写真家・斎藤政広(2010年9月22日撮影)



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