2022年(令和4年) 8月16日(火)付紙面より
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県埋蔵文化財センターが、鶴岡市の県立鶴岡南高の敷地内で進めている鶴ケ岡城跡発掘調査の説明会が11日、現地で行われた。調査場所は江戸時代の鶴ケ岡城二の丸の北に位置し、「七ツ蔵」と呼ばれた庄内藩の米蔵があったところで、今回の発掘で詳細な位置や規模が不明となっていた七ツ蔵の堀の一部が初めて確認された。
発掘調査は庄内中高一貫校(仮称)の整備に伴い増築工事が行われる、同校の校舎と校舎の間にある中庭部分約300平方メートルを対象に6月から8月末まで実施している。
同センターの説明によると、上層部からは現在の鶴岡南高の前身の旧制中学校の校舎の基礎とした礎石が発掘された。1938(昭和13)年に焼失した鶴岡中学校の再建時のものとみられ、前身の荘内中学校の礎石が転用された可能性もあるという。
下層からは七ツ蔵の堀と推定される遺構が見つかった。約120年前に埋め立てられた蔵を囲む堀の北端部に当たるとみられ、現在の地表から深さ約3・5メートルで堀の底が確認できた。遺物では江戸時代末期ごろとみられる陶磁器が出土し、中には七ツ蔵の建物のものと推定される屋根瓦の一部や、ツルが飛翔する姿をあしらった漆塗りの椀(わん)なども検出された。
また、調査箇所の西側では溝の遺構が見つかり、中世・室町時代の15世紀ごろと推定される磁器が出土した。以前の発掘調査で、東北公益文科大大学院などのある鶴ケ岡城南側からは中世の遺構や遺物は見つかっていたが、「その分布が北側まで広がっていたことを示すもの」と同センターは評価した。
鶴ケ岡城は中世には「大宝寺城」と呼ばれ、室町時代初期ごろには武藤氏によって築かれたとされている。同センターの担当者は「400年前の酒井氏の庄内入部、その前に庄内を領有した最上氏の時代よりさかのぼる大宝寺城に関連する中世の遺跡の広がりが明らかになってきた」と説明した。
この日は、鶴岡南高での説明会に引き続き、鶴岡市役所西側の街路事業に伴い、8月末まで行われている鶴ケ岡城大手門前の「馬出(うまだし)」(攻撃型防御拠点)の一部に関わる発掘調査の現地説明会も行われた。両説明会には市民ら約50人が参加した。