2023年(令和5年) 12月30日(土)付紙面より
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奥州藤原氏の重臣として庄内南部一帯を治めた武将「田川太郎行文(ゆきぶみ)」の縁で、鶴岡市の田川地区と、岩手県一関市東山町田河津(たこうづ)地区の交流が始まった。両地区には、源頼朝の鎌倉軍勢と戦い討ち死にした行文の墓の伝承があり、「田川」は一関の田河津の地名の由来ともされている。今秋には、田川地区住民でつくる「ぶら田川隊」のメンバーが初めて田河津へ視察研修に訪れ、地元関係者と交流。互いに800年の時を超えた縁に思いを巡らせ、今後の交流進展を誓い合った。
田川氏一族は平安時代後期、郡司に任命され、田川地区を拠点に栄えた豪族。奥州藤原氏と源頼朝の鎌倉軍が争った1189(文治5)年の奥州合戦で、藤原氏4代泰衡(やすひら)の重臣だった行文は、新潟を経て鼠ケ関から進軍してきた比企能員ら鎌倉軍の軍勢に敗れて討ち死にし、一族は滅亡したとされる。
行文の家臣・曽我三郎は、さらし首にされた行文の首をひそかに持ち帰り、藤原氏の拠点・平泉が一望できる束稲(たばしね)山の麓に埋めた。この場所は「田河座」と呼ばれ、現在の田河津の地名になったとされる。さらに、行文を弔うため庵(いおり)を結んだ場所が曽我寺と伝えられている。
田川地区には行文の墓や田川氏一族の墳墓群、館跡などが残り、田川地区自治振興会は田川太郎の歴史にスポットを当てた地域づくりを進めており、地元有志による「ぶら田川隊」を中心に研究や発信などの取り組みを続けている。そうした中で行文とつながる田河津の歴史を知り、10月26日に同隊メンバー12人が訪れた。
地元の矢の森自治会の菅原理会長らの案内で、曽我寺址を訪れ、静かに手を合わせた。引き続き同自治会と懇談会を行い、郷土史に詳しい、いわて東山歴史文化振興会の佐藤育郎会長が奥州合戦や行文にまつわる歴史を解説。「行文の胴体が田川にあり、首は束稲山のどこかにある。鶴岡の田川の皆さんの今回の訪問は、歴史的に深い意義がある」と強調した。
訪問後も互いに文書のやりとりが続いている。菅原・矢の森自治会長は田川地区自治振興会に宛てた文面で、「800年前に奥州藤原氏が滅んでいく大きな節目となった出羽北陸道の戦いの跡が、遠く田川地区と矢ノ森集落を結びつけることになったことに思いを新たにしている。今回の縁をきっかけに末永い交流になれば幸いです」と記した。
田河津を訪れた田川地区自治振興会の三浦総一郎会長は「行文の墓が平泉の近くで大切に守られていることを知り、ぜひ訪れたかった。田川太郎に関する研究を互いに深め、両地区の交流を継続していきたい」と歴史ロマンが結ぶ交流の進展に期待を寄せている。