2008年(平成20年) 2月7日(木)付紙面より
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田沢芳夫氏(元南海投手、鶴岡市出身)を偲ぶ
高校時代の活躍は、1年先輩で米沢西高(現米沢興譲館高)の投手で南海ホークス(以下南海)に入団した皆川睦男(米沢市出身、通算221勝)の縁で、南海球団関係者の目に留まった。1955(昭和30)年にお父さん(元三郎・今年1月30日93歳で死去)の「プロに入れるなら契約金はいりません」の一言で契約金無し、月給8000円=推定=(当時の高卒平均初任給は約5000円)で南海に入団した。
入団1年目から背番号「39」を付け一軍で活躍、同年のパリーグ制覇に貢献した。翌56(昭和31)年にはチーム最多の勝ち星15勝を挙げ先発ローテーションの一角を担う活躍で、オールスターにも選ばれた。
3年目の57(昭和32)年6月24日、大阪球場での阪急ブレーブス(現オリックス)戦。得意の速球とシュートがさえ渡り、9回2死まで無安打に抑えていた。最後の打者は代打滝田政治(秋田中、秋田鉱専卒、急映―大映―阪急―大阪)。ストライクを取りにいった外角高めの直球をはじき返され右翼越えの二塁打。「ノーヒットノーラン」の大記録は夢と終わった。
ここで、田沢は高校時代の東北大会決勝で「一球」から崩れ、逆転された教訓を思い出した。大記録を逃して悔しかったが、気持ちを切り替え、次の打者は3球三振に打ち取り、13―0で完封勝ちした。
プロ野球で9回2死から安打を打たれノーヒットノーラン(パーフェクトを含む)試合を逃した投手は、昨シーズンまで20人(ロッテの仁科と西武の西口は2回)いる。ちなみに達成した投手は74人で、達成するより難しい珍記録だ。
59(昭和34)年には読売巨人軍との日本シリーズ第2戦に先発。初回、この年入団2年目でセリーグ首位打者となった長島茂雄に2点本塁打を打たれたが、その後チームは逆転。南海はエース杉浦の日本シリーズ4連投4勝の大活躍で、宿敵巨人を倒し初の日本一となった。
55(昭和30)年以降の南海黄金時代に貢献し、順風満帆に見えたプロ野球での活躍も、肩を壊したため、63(昭和38)年に引退。実働8年間で通算189試合に登板し44勝26敗、防御率2・61の成績だった。
田沢はプロ野球選手の栄光を捨て「一からやり直そう」と決意。南海当時「親分」と慕った監督の鶴岡一人=2000(平成12)年死去=に紹介された早川電気工業(現シャープ)へ、電気科だった高校時代の知識が生かせれば―と思い就職。営業課長、消費者相談室長などを歴任し、定年まで勤めた。
ノーヒットノーランを逃した「一球」について「7回を終わったころから、もしかしたら球団史に残るかも―と意識していた。本当に悔しかった、『しゃーない、そんなこともあるわい』と気持ちを切り替えた。会社勤めを選んだ切り替えも野球から得た身上で、その悔しさがサラリーマン生活のバネとなった」と晩年述懐している。
定年後は、南海時代の先輩から後釜に、と要請され、元巨人の桑田真澄(現大リーグピッツバーグ・パイレーツ)や東北楽天の平石洋介らを輩出したボーイズリーグの名門大阪の「八尾フレンド」に02(平成14)年からヘッドコーチとして就任。野球への恩返しのつもりだった。
「一球の大切さと切り替えの大切さを子供たちに伝えたい」と、大阪八尾市にある市立山本球場のグラウンドに立ち、鶴岡親分から教えられた「人の褒め方、しかり方」を訓として、野球少年を温かい目線で指導した。
田沢は、先月25日大阪藤井寺市の自宅で急性心筋梗塞(こうそく)のため71歳で人生の幕を閉じた。
練習と試合で平日も休日も無い生活の合間を縫い、昨年11月に帰郷した際は、地元の同級生と酒を酌(く)み交わし、旧交を温め、次回開催する中学校の同級会出席を約束したばかりだった。
先輩と慕い高校時代県大会で4番打者として対戦した皆川も、05(平成17)年に死去。同級生でエース同士として戦い、現役最後の年となった1963(昭和38)年に南海のチームメートとなった前新庄市長の高橋栄一郎(新庄北高、慶応大卒、巨人―南海、通算14勝)も昨年7月に他界した。昭和30年代にプロ野球で活躍した山形県出身3選手のご冥福を祈るとともに、田沢が生涯こだわり続けた「一球の大切さ」を後輩の野球少年に贈る。
(文中敬称略・上林達哉)
田沢投手のサイン入りブロマイド(加茂中で先輩の秋野哲雄氏提供)