2010年(平成22年) 4月21日(水)付紙面より
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鳥海山の中腹を通る山岳観光道路・鳥海ブルーラインの除雪作業が、今月28日の開通を目指し急ピッチで進められている。
遊佐町と秋田県にかほ市を結ぶ鳥海ブルーラインは全長約35キロ。積雪や凍結のため冬場は通行止めとなるが、春山開きに合わせて開通、大型連休には大勢の行楽客が訪れにぎわう。
本県側は同町吹浦の小野曽集落にある旧料金所から県境までの約15キロで、今月9日に除雪作業がスタート。本県側を担当する業者によると、積雪は昨年に比べて若干少なめだが、県境付近の最深部では約5メートルあるという。
雲に覆われた19日午後は、大平山荘(標高約1000メートル)まで約50メートルの地点で重機5台がフル稼働。約3メートルの雪の壁をブルドーザーやホイールローダーで切り崩し、それをロータリー除雪車が谷間に吹き飛ばす作業を繰り返しながら、開通時の名物となっている「雪の回廊」を作り上げていた。
担当業者によると、秋田県側はすでに除雪作業が終了。本県側は24日までに除雪作業を終える予定という。その後、ガードロープやカーブミラー、標識の設置作業を行い開通に備える。
2010年(平成22年) 4月21日(水)付紙面より
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鶴岡市羽黒町の松ケ岡開墾場(山田鉄哉理事長)で19日、明治初期に行われていた茶の栽培を復活させようと、苗植え作業が行われた。「狭山茶」の生産地・埼玉県の入間市博物館と農林総合研究センター茶業研究所の協力を得て、かつて旧庄内藩士が挑戦したものの産業化には至らなかった茶栽培に、130年ぶりに再び挑戦する。
同開墾場は明治初期、旧庄内藩士約3000人が開墾。養蚕製糸事業を創設するとともに、当時輸出の主要品目のひとつだった茶の生産に着手した。松ケ岡の歴史を記した「凌霜史」(武山省三著、松ケ岡開墾場刊)によると、1873(明治6)年5月13日に初めて茶の種まきをし、約1カ月後には発芽した記録が残されている。この年にまいた種はおよそ300俵分(約1万8000キロ)という。
さらに75(明治8)年12月には、旧藩士の伊藤孝継が鹿児島を訪れ、西郷南洲翁(隆盛公)に「庄内産の茶に名前を付けていただけないか」と要請。南洲翁は旧藩士でつくる開墾場の組織「六小隊組」の組頭の氏名から1字を取り、「林月」「水蓮」「都山」「敦本」「原泉」「白露」を考案したと伝えられる。
しかし、産業として結実することはなく、80(明治13)年に栽培事業が廃止された。「凌霜史」では「気象条件が合わず、優良品の生産ができなかった」「生産コストがかかり、産地としての生き残りが難しいと予測された」と推測が記されている。
こうした歴史的背景を元に、同開墾場総代で旧庄内藩酒井家18代当主の酒井忠久さんが昨秋、親交を持つ入間市博物館の黒澤一雄館長と茶産業について話したところ、黒澤館長から「以前は新潟県村上市が産業としての茶の北限とされたが、現在は温暖化が進んでいる。品種改良の技術も発達しており、寒冷地に強い種も開発されている。狭山茶を庄内で試験的に栽培してみては」と提案があった。
入間市博物館の協力で、茶業研究所が開発した苗を無償提供してもらう約束を取り付け、雪解けを待っていよいよ苗植えを迎えた。この日は酒井さんと黒澤館長のほか、苗植えを指導する入間市の茶生産者と地元松ケ岡地区の農業者合わせて9人が、「ゆめわかば」「ほくめい」「さやまかおり」の3種600株を開墾場の農地(約2アール)に植えた。
黒澤館長は「植えた3種はいずれも味と香りが良い。どんな結果になるか分からないが、とにかく我慢強く育ててもらいたい。うまくいけば3年後には本格的な収穫ができる」、酒井さんは「生産に成功すれば、観光と組み合わせて新たな産業の創出ができる。茶葉が育つことを期待したい」と話していた。