2024年(令和6年) 3月23日(土)付紙面より
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「飛島では年貢をスルメイカで納めていた」―。藩政時代、年貢は米で納めるのが普通だったが、飛島では米が収穫できない。そこで「イカの方から島に寄って来る」と言われた、飛島ならではの事情による年貢納付である。鶴岡市の致道博物館で「庄内藩と飛島」展が開催中だ。庄内に住んでいても、飛島の「姿」をよく知らない人も少なくない。この機会に足を運んでみてはどうだろうか。
飛島は周囲約11キロの、テーブルのような平らな島だ。島では波で削られた段々状の海岸段丘、火山活動でできた材木岩などの奇岩が見られる。日本の婦人消防組織発祥の島であり、北前船往来による古文書なども数多い。島全体が歴史と文化の“塊”とも言える。
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飛島は酒田港から約39キロ。江戸時代は秋田県の豪族に支配され「羽後飛島」と呼ばれたこともあった。致道博物館と山形大学による島内2カ所の遺跡調査で縄文時代早期の遺跡が発見された。約6000年前には人が住んでいた。島の中央部の洞窟「テキ穴」から、約1000年前と推定される22体の人骨と土器類、貝殻片などが発見された。「讃岐」「丹後」という山陰地方とのつながりを感じさせる姓もあり、平家の落人説も語られている。
漁業で生きる飛島では、勝浦・中村・法木の3集落の漁場争いが絶えず、庄内藩の裁定を仰いだ。年貢のイカ10万枚は3集落の規模に応じて負担。庄内藩が島役人を派遣して徴収、派遣された佐藤梅宇は島の習俗・祭事などを鮮やかな色彩で描き、イカによる年貢は「飛島図画」という文化財も残した。北前船がシケを避ける避難港の役割も担った。船頭や乗組員が泊まる宿も十数軒あり、御客控帳、船手形など船の寄港地だった証しが残る。
1859(安政6)年9月、イギリス船が函館領事館員を乗せて勝浦港に入港した。3本マストの帆船で乗組員が甲板やマスト上で作業している様子の絵、戊辰戦争時に飛島沖で沈没した幕府軍艦「長崎丸二番」の積み荷のイギリス製の大皿、船宿が所有していた伊万里の大皿なども展示されている。
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飛島は「とど島」と呼ばれた時代があった。海獣のトドが多く島に住みついていたとのことからで、酒田市指定文化財「永田文書」には「とゞ嶋よりいか十一駄分」(一駄2000枚)と、年貢関連の記述にも「トド」とある。庄内藩が幕府にスルメ一箱献上した際の「鯣(するめ)進上」の目録もあり、飛島のスルメは幕府にも知られていた。
開催中の企画展は、島の習俗、文化、古文書の民俗資料など、江戸時代の歴史に焦点を当てている。会期は4月23日までで、同13日には学芸員による展示品を見ながらのギャラリー講座がある。飛島の歴史、習俗を知ることができる好機である。