2024年(令和6年) 5月3日(金)付紙面より
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酒田市市条の八幡神社(小野信幸宮司)で1日、古くから伝わる神事「流鏑馬(やぶさめ)」が行われ、神馬に乗った射手が放った矢が的を射ると、行楽客らは拍手を送り古式ゆかしい祭りを堪能していた。
同神社は平安時代前期の877(元慶元)年の建立。流鏑馬は天正年間(1573―92年)の「出羽国一之宮両所山縁起」に記載されているなど、その歴史は古く、毎年5月1日に行われる同神社神幸祭(みゆきさい)の中で、五穀豊穣(ほうじょう)を祈る神事として伝わっている。近年は寒河江八幡宮流鏑馬保存会(寒河江市)の若手会員が射手を務めている。
神社でおはらいを受けた射手は、神馬にまたがり近くの荒瀬川左岸に設けられた的場に向かい、約10メートル離れた5つの的を目掛けて矢を放った。あいにく鳥海山は雲に隠れていたものの、心地よい風が吹く絶好の祭り日和となる中、川沿いの土手には大勢の行楽客、祭り客が訪れ、目に鮮やかな新緑を背景に射手が構えると盛んにシャッターを切っていた。
酒田市松山地域にある中山神社(白井知行宮司)の例大祭「松山まつり」が1日、同地域中心部で行われ、呼び物の「武者行列」(酒田市指定無形民俗文化財)で、武具甲冑(かっちゅう)の武者たちが堂々の行進を披露した。
同神社は、江戸前期の1647(正保4)年に庄内松山藩の初代藩主・酒井忠恒公が立藩した翌慶安元年に創建。その後、庄内藩祖・酒井忠次公と、徳川家康の嫡男・信康公を祭るために社殿を造営した。信康公を祭るのは、織田信長の命で同公が切腹した際、忠次公が深く関わっていた縁。
武者行列は、1757(宝暦7)年ごろから祭典の神輿(みこし)渡御を警護したのが始まりといわれ、250年以上続いている。今年は中山神社の氏子や東部中学校の生徒ら約100人が参加した。
午後1時過ぎ、神社前を出発。かみしも姿の武者を先頭に、鉄砲組や弓組、足軽組、騎乗の行列奉行、侍大将らの鎧(よろい)武者が、松山歴史公園や仲町など中心部約4キロを3時間ほどかけて練り歩いた。
このうち、松山歴史公園では、松山城大手門(県指定有形文化財)をバックにした姿が特に“映える”ことから大勢の見物客が待ち受け、盛んにカメラのシャッターを切るなど楽しんでいた。